心象記 201901-202009
2020/04/16 考えること自体に感情が付随しているわけでない。思考と感情が同じ空間にいることにより、思考という行為が"悲観的である"と認識している。改めて。早速、分別。 悲観的な世界には、魔法のような力がある。悲観か楽観の性質の面ではなくて、単純…
娘にはとにかく大将の声を聞いてもらっている。
「シンガーソングライターはこの気持ちになるのか」とか思ってみたりする。
説明ができないから、とにかく創る。
一過性のものを捨てようと大樹に鳥は寄ってくる。ひとしきり雨が降った跡。
そういうものがあると仮定して認識させる教育(学校で教える?道徳の時間?)があれば、一般的な意味での不幸な人は減るのではないだろうか。
それで十分に伝わるという幻を感じられる想像力は多分ある。
こういった有事の際に力があればと思う。
その人の言うざらざらは、自分のどの虚無に当て嵌まるのだろうか。
疑問の集大成が思想?
誰も何も教えてないのに泣くこと、つまり、伝えようとする。そう考えれば、泣くことは本能的であるのか。
タンチョウとは旧千円札に印刷されている鶴だという。夏目漱石の裏側にいる2羽の鶴、多くの日本人が目にしたであろう鳥。
いつか志人さんがフリースタイルで言っていた「電気伝導体」という単語が浮かぶ。
彼らなりの仮面の告白を始めるのか、いつもと違う、それでもただ同じように行動しようとするのか。習性と新規の体験が混ざっていく、音が流れれば踊る、という妄想。
彼女の中のイメージが一人歩きし、エネルギー量が保てなくなりそうという。「作品の鑑賞は人間の脳を覗いているようなもの」とも言っていた。
とにかく、"携帯電話が鳴っていることに気づけるようにしておくこと"が今1番の仕事だ。
父という役割上、極度の状態以外では精神と態度が分離できるようにしておく、その準備だ!
コミュニケーションは体験と想像力によるものが大きいのか。悲痛な体験をすると、想像力がそこに引っ張られていくのか。
綺麗な女性2人がキャッキャッしながら、多くの量の煙を口から出していた。その光景に迫力を感じ水タバコを吸ってみた。
対象と自分の関係性をどうしていくのか。大げさにいえば生き方。
過ごしては忘れて、随分といろんな記憶を作ってきた。
山手線で止まるかどうかで一悶着あり、ホームを2回移動した。
正確な情報を掴むとは、他の行動を取る時と同様に、最終的には嗅覚ではないだろうか。
基本的には、その事柄について知っている分母が大きいほど、解明しやすくまた複雑になる。
理解を示す身振りや手振りは他者に対する敬意ではあっても、"互いを理解している"とは言えない。それでも、伝えようとする。とても不思議である。
この「調子が悪い」はさざなみ程度である。
働いている最中はそれなりの顔をしてみせます。報告、連絡、相談をバランスよく頑張ります。そうして、お金を稼いでいます。
性質に基づいて新しい規則を作り利用する。そこには常に人間にとって、都合のいい(利用しやすい)規則にされている。
どことなく気の抜けた、発言。間の発祥地は何処。
こいつはなかなかに厄介で、口の中に意識を持っていかれる。ほうれん草のおひたしに染み込んだ醤油が、白い潰瘍に触れる。