日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

研ぎ澄まされた感覚と引き換えに

研ぎ澄まされた感覚と引き換えに

 

表現というのは糊塗であり、憑依的な部分があるように思う。その人の全てではなく、細かく繊細な部分を拡大したもの。元々が微細だからこそ、拡大した時に強靭な力を持っていたりするのかもしれない。

 

なかなかどうして、生活や会話とは交じり合わないのではないか。交じり合わないというか、その繊細な感覚を表出してばかりいると、病むばかりであり、伝わらない。 

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表現に関しては主観的なものに惹かれるが、主観的というのは強くもあるが脆くもある。諸刃の剣的な、だからこそ、美しく。

 

しかし、その感覚はきちんと伝わるのか。と、それを問題にしている時点で、芸術的な「完成」に向かっていないのか。方や生活は生活であり、時に猥雑である事実も見逃せない。社会の中で生きる、それは狡猾さや抜け目なさ、また傲慢さを駆使し生き抜く、といえばシニカルすぎるけど。そう言った部分は事実として存在するように思う。

 

ただし、その狡猾さや抜け目なさは、研ぎ澄まされた感覚と引き換えにあるものなのかもしれない。二頭を追っても仕方なく。

 

さらに、いくら思考しようと「持って生まれた」には敵わない。結局、それが一番の武器であると今のところは。知ることだけが全てではなく、また知らざる者が正義でもなく。

 

最近読んでる本


これは興味をそそる本!
涅槃、明王、釈迦、釈尊・・、言葉は聞いたことあったけど、何のことやらさっぱりといった状態からほんの一ミリ少し脱せた。

(手の表現はこうなるわけと。ふむふむ。)

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また別の本は、写真で仏像さんを紹介してくれてんねんけど、写真やのにオーラがえげつないのねん、

(お顔は円やかで美しい、地元で愛される子育て地蔵!)

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ちょいと、鎌倉に行こう。