研ぎ澄まされた感覚と引き換えに
研ぎ澄まされた感覚と引き換えに
表現というのは糊塗であり、憑依的な部分があるように思う。その人の全てではなく、細かく繊細な部分を拡大したもの。元々が微細だからこそ、拡大した時に強靭な力を持っていたりするのかもしれない。
なかなかどうして、生活や会話とは交じり合わないのではないか。交じり合わないというか、その繊細な感覚を表出してばかりいると、病むばかりであり、伝わらない。
表現に関しては主観的なものに惹かれるが、主観的というのは強くもあるが脆くもある。諸刃の剣的な、だからこそ、美しく。
しかし、その感覚はきちんと伝わるのか。と、それを問題にしている時点で、芸術的な「完成」に向かっていないのか。方や生活は生活であり、時に猥雑である事実も見逃せない。社会の中で生きる、それは狡猾さや抜け目なさ、また傲慢さを駆使し生き抜く、といえばシニカルすぎるけど。そう言った部分は事実として存在するように思う。
ただし、その狡猾さや抜け目なさは、研ぎ澄まされた感覚と引き換えにあるものなのかもしれない。二頭を追っても仕方なく。
さらに、いくら思考しようと「持って生まれた」には敵わない。結局、それが一番の武器であると今のところは。知ることだけが全てではなく、また知らざる者が正義でもなく。
最近読んでる本
これは興味をそそる本!
涅槃、明王、釈迦、釈尊・・、言葉は聞いたことあったけど、何のことやらさっぱりといった状態からほんの一ミリ少し脱せた。
(手の表現はこうなるわけと。ふむふむ。)
また別の本は、写真で仏像さんを紹介してくれてんねんけど、写真やのにオーラがえげつないのねん、
(お顔は円やかで美しい、地元で愛される子育て地蔵!)
ちょいと、鎌倉に行こう。