日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

「回廊日記」 2021.03.18

『回廊日記』

 

慢性的な肩こりがひどく、マッサージ屋さんにいって肩を揉んでもらうと「押し返されます」の一言を頂戴する。施術を終えた後の爽快感は度を越して、身の毛もよだつほどである。

 

「身体の中のあらゆる血は抜かれ、新発売のポンプで新しい血を注入されている」と思いながら帰り道に歓喜のガッツポーズをとるまでには至らないが、涙ぐましくもあり、波に揺られて岸に到達するかのごとく、ゆっくりと感動が押し寄せてくる。

まるで自分自身が聡明になったかのような、全くの勘違いをしっかりと生み出す。

 

重度の肩こりは頭痛を生み活動量が減るという見解を持っている。
「なんとも、まあ、いかがなものか」と憤り今日から背筋をピンと伸ばして生活することにした。背筋を伸ばすと、腹筋と背筋が微妙に鍛えられている感じがする。
マッサージ屋さんにいくと高確率で運動を進められる、忙しいふりをした現代人に属する私はなかなか手が付けられない。

 

気になって全方位型トポロジー、インターネットで調べていると「背筋は伸ばすな」と書いてあったりする。確かに半日ピンとしていると若干腰が痛い気がしなくもない。張りすぎても逆に腰痛の原因になるのだろうか。実は背中あたりの筋肉が悲鳴を上げる準備を着々と始めていたりして。

 

背筋ではなく、腰の下あたりだけをまっすぐにして、後は力を抜くのが自然体なのか。改善のひとつの要素は己の最適解を探す作業であるので、しばらく姿勢を意識してみる。忘れたころに猫背になっていないことを祈るばかり。

 

今日は東京・渋谷でライブがある。親から授かった名とは別に objective-Saw と名付けて活動をしている。イメージ像をつくり上げている気になっていても、何の当てにもならない。イメージは自分で作為的につくるようなものではない。捉え方の範疇を超えないが反映された結果とも言える。

春も中ごろだ。objective-Saw とは一体何なのか。

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「回廊日記」 2021.03.16

『回廊日記』

 

ただいま午前5時。

1時間前には少し大きめの揺れを観測。電気や水、いわゆるライフライン。断絶は突然に訪れる。食べ物が陳列されている棚からは食品が一斉になくなる。自然災害、何かを淘汰するために起こっていると勘違いすら起こしそうになる。
先日、知人の詩人が出ている番組をぼけっと見ていた。朗読の合間のMCで日付を記号化することに対して、声をあげている詩人の女性がいた。大災害の日も記号化されることにより、何でもない日と変わりなく、均一的に見られてしまうことに対する憤りと受け取ったが、捉え方は合っているのだろうか。


関東に住みはじめて、地震の多さに驚いている。周囲の家屋は倒壊し日常は瞬く間に消えていく、地震がトラウマになるのもうなずける。命に優先もへったくれもないが、子どもを持つと余計に敏感になる。なぜそうなるのかは正直わからない。


弥生、3月も中頃、気がつけば時計の針は午前6時を指し示し、カーテンの隙間からは少し光が注がれる。麒麟のビールを喉に流しこみ、90年代グラウンドビートの名盤 yo yo honey の voodoo soul のアルバムを耳に入れる。ベースライン、ストリングス、溶けていく儚さ。朝から夢を見ているようだ。


後1時間もすれば子どもが起きる。夜はすっかり明け、今日も1日が始まる。

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「回廊日記」 2021.03.13

『回廊日記』

 

ひげ剃りの角度のあやまりによるものか、無駄に勢いをつけたためか、はたまた、鋭利であることを忘れ気が抜けていたのか。

 

唇の真ん中の上あたりを切ってしまった。ティシュで抑えるものの血が止まらない。空気に触れていると微妙にヒリヒリする。今しかない、自明、ベストなタイミング、満を持して絆創膏の登場である。

 

真ん中の柔らかい部分に傷口を当てる。痛みは全くない。中学3年生の卒業写真を撮る際、ケガもしていないのに、唇と鼻の間に絆創膏を貼りだした中山くん、愛称チャー坊。周囲の目から見ると、その行動は若干、奇異に映っていたが、使用頻度があまり高くないせいもあり絆創膏を見る度に彼を思い出す。

 

絆創膏と中山くんが笹谷の中で結びつく。チャー坊と笹谷は絆創膏という一種の治療の際に奇しくも出会うのである。

 

「中山くんが肌に張り付いている」

 

それは言い過ぎである。かぎかっこを使用したあたりに反省の余地が完全にある。余地はあれど、その余裕やゆとりを無視して次に取り掛かる。その余りの部分を無視して自己解決をすると隙ができない。規定した中ですべてが起こるのであり、内(自己)と外(他者)に対する認識にギャップが生じる可能性が膨らむ。

 

あまりにも「余り」の方向に話が進みそうなので、触ってはいけないものを触り元の場所に戻す時のような気まずさを感じつつも絆創膏の話に。そう、唇の上の切り傷を隠す、誰もが一度は貼り付けたことがある絆創膏へ。

 

多くの人間がまず確認するであろう顔にしばらくそいつを貼る。

 

必然的に「この絆創膏について触れてもいいのか」と相手を惑わせる可能性が出てきた。触れてもいいのかと思われている・思われていない、どちらに転んでも問題がないような表情作りの練習を始める。

 

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都々逸を聴く間やらも

賽の目は動いている

 

鬼のいない間

晴天に照らされる中ほどの山

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ちなみに、意識したことを無意識にできなければ習得にはならないと考えているが、まずは意識から始まる。コンプレックスとして意識した時点で、捉われて他に転換するストレス解消法に走るか(これは根本的な解決にはならないのでお勧めできない)、もう一方は習得するか。

 

そして、聴かれてもいないのに「お勧めできない」と発言する。これは既成事実の作り方である。物事を進めるためのひとつの方法だが、鋭い人には「いやいや、そもそも聞いてないねんけど」と思われる可能性がある。ただ、本人の意図しないところで発生するユーモアには拍手を送りたい。人間味。

 

何を言いたいのかわからなくなってきているが、宝石はどこに眠っているのか、だれにもわからない。

 

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・(写真) 昨日、千駄ヶ谷でみた ESSUさんの作品

すごく惹かれた このキャラクターのアラビア語のような眉毛に魅力を

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