日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

「詩を考える」「詩を書く」 谷川俊太郎さんの本を読んで

2020/010/03

 

不定期の土曜日に「シジンサロン」というオンラインの番組に出演している。
詩人6名による番組であるが、"詩人"という肩書き、響きの重圧が常にのしかかる。
言葉(思考)というものに興味があるのは確かだが、詩集をあまり読んだことがないし、
何より詩について考えたことがほぼなかった。
「シジンサロン」しかり、詩人の方との付き合いにより"詩"を考えることが多くなった。これは圧倒的な感謝。

(…ということで、今回の「智慧の記」は、ここ最近少し"詩"に触れられて考えたことをまとめてみます。)

先日、auly mosquitoにて取材させていただいた死紺亭柳竹さんは、キャリア20年を迎える。どんな職業であれ、20年と5-10年のキャリアでは深みが違うように思う。同じ字面の言葉でもそこに附随する言語外の像のようなものがまるで違う。

 

キャリア一体何年なのか...もはや不明、谷川俊太郎さんの「詩を考える」「詩を書く」という本を購入した。

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生活綴方という妙蓮寺にある本屋さんへと行く機会があり、そこで2冊を発見した。
「"考える"と"書く"、これを連続で読むことによって何かがあるのではないか」、いつもの雑な直感が働いた。

 

著名人なのでどうしても、"あの谷川俊太郎さんフィルター"を通してしまいたくなる。
内容を吟味したい場合は、(難しいけど)なるべく名前を消すように努める。一般的なおじさんの本。

 

2冊を読んで一番に思ったのは、"この人自身から出ている言葉"であると。
自らが表現において大切にしている、"その人自身がその人自身であると証明されているような表現者"と感じた。他の人から寄せられているあとがきにも書かれていたが、とんでもなく自覚的な人なのかなと思った。自分の自覚的ではない部分も知っている、猜疑心により導かれたバランス感覚とでも言えばいいのか。

 

直観を駆使して詩を書いているからこそなのか、知識がないことに対する謙虚さが随所に感じられる。それは自己防衛と言葉に対する責任の両方から湧いていると感じられた。自分も末恐ろしいぐらい知識がないので、学問や知識に対しての謙虚さは忘れないようにしたいと改めて。


内容もうなずけるものばかりだが、その理論よりもとにかく詩や詩人、言葉について考え続けている姿勢(ゆえに矛盾してくるということも含めて)を感じ取れて嬉しい。この2冊、また死紺亭さんの取材を通して、そもそも何がわからないのかがわからない状態から、わからないものということが少しわかった気がした。
上記の発言こそ本当にわかっていないのかもしれない。学び続けて。

 

スタイルの問題であり、言うまでもなく優劣の話をしているのではないが、死紺亭さんの方が"現実世界を生きること"に直結している詩人だと感じた。地に足がついているローカルスター感。谷川さんは生きていく上での選択肢がたくさんある人物のように感じた。
先輩から学べる特権は最大限に利用していたい(狡猾)

 

スケールの差はとんでもないが、正直、選択肢があるというのは自分にも感じる。
浮かれているわけでもなく、同時にそれゆえの責任と使命もあると思う。(勝手)

 

さまざまな年齢の詩人の方がいるが、みなさま詩についてどう思っているのだろうという、漠然、抽象的な疑問がある。
小説の方が文体が見えてきたりして、作者を感じ取りやすいように思ってしまう。詩は解釈が自由すぎて取っ掛かりがないイメージ。

 

埼玉の自宅にて記す。

 

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日常生活の意識の持ち方により、内的な心象を書き出すのを辞めるべきだと思った。

2020/09/29

 

久しぶりの更新。
日常生活の意識の持ち方により、内的な心象を書き出すのを辞めるべきだと思った。書くという行為は、この"意識のコントロール"に含まれていたということなのだろうか。


日記は日々の出来事を記した文章である。「心象記」と題したこのブログは出来事ではなく、日々の心の動きでも観察(記録)してみようという試みだった。
何かを書く時、虚構とまではいかなくても作為的なものがどうしても発生する。言葉を使用する時点で限定性があり、その中で組み立てていく、飾っていくのだから仕方のないこととも思う。

 

言葉は曖昧なものを定義づけられる。その反面、言葉はその中にイメージが含まれているので、曖昧さも持たせられる。相反するようだけど、"言葉"の見方により。心象というそもそも抽象的なものに対して定義と曖昧さで視点を増やせるため、言葉は心を記録することと相性が良いように思う。

 

ただ、言葉などによるイメージの規定は、作品の中だけにしておきたい。
数カ月、規定することは本当に自身の考えから生まれていると思い込んでいる状態だった。生活にその感覚が入り込んでいたように思う。自己陶酔。なんだかんだ色々あるけど、"みんなでやっていこう"というはずだったのに、いつの間にか。頭を打った。

 

これを仮に創作病とでも名付ける。
創作病に罹患すると「これだけ考えているのだから、自身が他より正しいのではないか」という傲慢な人間になりやすい気がする。理解できているという慢心。人として、一番よくないと思う。視野も狭い。

罹患していないと、破滅型・陶酔的な文章を書きにくいのではないかという思いもなくはなかった。ただその道を行くと多分、「道中は不幸(人に迷惑をかける)・ゴールは自殺」というコースになる。そんな話を堀口くんと電話で話した。

そして、普通に考えて、見る人ありきなのだから、本人が思い込んでいるだけで、はたから見れば同じもののように見える可能性もある。自分なりの仮説(感覚:言語外のものも含む)をたくさんこしらえて、それらを組み合わせる。そもそも、その仮説(感覚:言語外のものも含む)をみんな知らないので、独特なものができる。
それがすごいことなのではなくて、みんなが前提となる仮定(感覚:言語外のものも含む)を知らないだけともいえる。


勘違いが生まれやすいポイント。
逆を考えればいい。いきなり知らない人が目の前で本気のダンスを見せてくる。それは困る。この例は適切ではない感じはするが、言ってしまえばそれと同じような態度だったのである。"あえて"ではないところ、余計にたちが悪い。反省。

 

自分の場合は、それだけで戦うには自然体から遠ざかるし脆すぎる。人とどんどん距離も生まれる。内側から湧いてきた余計な(確信めいた)考えは排除していたい。その先、排除し続けても残るもの、つまり、森羅万象、あらゆること・現象に謙虚に接した上で残るものが自らだったりする。結果からしかわからない。

 

ということ(?)で、ブログのタイトルを「心象記」から「智慧の記」に変更しました。
聴いた音楽、人から聞いた興味深い話、読んだ本、知ること/調べたことを重点に置いた文章にします。心象記はいつか、auly mosquitoの連載にでもしよう。一個人の心の変化のアーカイブ、記録として。

 

私的でしかない話、目を通してくれている人、ありがとうございます。
イチジクでプライベートゾーンを覆い隠すことにならないように「智慧の記」がんばります。締めの言葉として、wikipediaに記載されていたジャズピアニストのハービーハンコックの言葉を残しておきます。
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「私自身は決してそういう人間にならないようにと願っています。自分は何でも知っていると信じ、ほかの人たちの言うことに耳を貸すことを忘れてしまった人、年長者だというだけの理由で年下の人たちよりも何でも知っていると思い込んでいる人、私は絶対にそういう人間にはなりたくありません。そこには非常に大きな誤りがあるんです。
実際、私も教えるという機会に恵まれたときに経験したことですが、先生と呼ばれる人たちの多くが、教える生徒たちよりも、むしろ教える自分のほうが生徒たちから学ぶことのほうが多いと証言していました。これはとても良いことだと思います。」
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「曇りの日、近所の道」

 

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マスクと炊飯器

2020/09/02

 

マスクのヒモがすぐにちぎれる。箱買いしたあるマスクを使っているが、耳に掛けようとすると3回に1回は使用不可になる。予備のマスクを持っていればいいが、外に出かけている時にちぎれると非常に困る。非国民と言わんばかりの白い目、なんと簡単に向けられるのか。


同じタイプのマスクが後50枚ぐらいある。誰かに配るわけにもいかず、使わないのも少しもったいない。ということでしばらく、数枚のマスクを持ち歩く。マスクがないなど用入りの際はぜひお声がけを。3〜4枚は持ち歩くつもりです。(ただ、すぐにちぎれます。)


今日は朝から焼きおにぎりを食べた。醤油がべっとりと塗られた、こんがりとした焼き色。"中はモチッとして外はカリッとしている"という表現は、焼いた後の芳醇なパンなどに用いられるが、焼きおにぎりも同様であるのではないかと訝る。

 

外がカリカリしていることにより、お米というのはモチモチしているのだと再認識できる。固さと柔らかさが交わり合う口の中、噛むとともにそれぞれが移動し、飽きない食感を多分、生む。


一昨日、我が家に新しい炊飯器が届いた。まずは一度、パカッと蓋を開いて閉じてみた。辺りを包むのは新品の気配である。近々、美味しいお米を食べられそうだ。

 

しかし、黙りこくっている。

炊けた時はピィーと奇声のような音を発して、眠りについた赤ん坊を起こすのに、お米が釜に入っていないと無言を貫くのか。

そして、こんなにも横に長い必要はどこにあるのか。

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