日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

「今日はこれぐらい欠けているのかぁ」とかしみじみいきたい

2020/06/21

 

朝、早めに目覚めた。昨日のお酒が残っている。
そのままベビーカーを押してふわふわと近所をお散歩、悪くない。久しぶりにイベントに行った気持ち。音楽が流れて人が交わる空間は、自分にとっては特別と改めて感じた。
健三さんとも久しぶりに会って話せた。ブラックミュージックに興味が湧いているそうで、ぜひとものめり込んで欲しい。後、べしゃり、落語にものめり込んで欲しいとか勝手に思った。

 

コロナの自粛でほぼ出かけていない。ほとんどの人がそうかもしれないが、生活を見直す機会になった。曖昧な言い方だが、丁寧に暮らそうと思った。

気になったことをきちんと調べてみたりするとシンプルに楽しいと気がついた。
とにかく意識が自分に囚われすぎず、すこぶる健康である。調べることは、膨れあがった自意識の討伐に役に立つ。


自分を見つけるというのは、自分の特性を知ることではないだろうか。
「行動というのは自分の意志で考えてとっているのではなくて、すでに決定づけられている」というような説に触れて、すごくそう思う。後、"概要を知ることと説明されている事柄の空気感に触れる"というのは全く別ものと感じる。

 

ギターを弾く振りやら、暦やら季語やらヒトラーチャップリンやらを調べたりして過ごした。1対1と複数人が集まったとき、誰もがちがう仮面をかぶる。複数人が集まったときの仮面に争いの種は宿る。

 

太陰暦は月の満ち欠けで日にちを判断するのだけど、すごいロマンチック。
「今日はこれぐらい欠けているのかぁ」とかしみじみいきたい。もうひとつ、調べていて時計草という花の迫力に驚いた。キリストの受難の花らしく、余計に威力が。

 

写真は散歩中の竹。

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