日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

音楽している人が「俺(私)もやりたい!」と思ってもらえるようなイベントにしていきます。

EAR

 

土曜日はEARにお越しいただいた方ありがとうございました。

なかなかに濃い日になったかと思います。ジャンルレスでそれぞれの感覚が交差したかと。ジャンルは違えど、共通する感性というのは存在すると思います。人間、誰しもがその感性を持ち合わせている、環境か主義かは甚だわかりませんが、無意識へと押しのけているのかもしれない。その感覚、知覚を呼び起こす、といえば大げさですが、そんな風なイベントにしていければなと。音楽している人が「俺(私)もやりたい!」と思ってもらえるような。 

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やはり、生音は迫力があり、奥側に迫るものがありますね。楽器でのセッションとかしていって、斬新な組み合わせでその人の幅、新たな表現が見つかれば嬉しいなと。他人の感性を借りて、プレイヤーとしてより広げられるように。それは、自分自身にも言い聞かせていることであります。なんとなく集まって飲んで話すより、音楽を一緒にした方が絶対はやい。会話せずともコミュニケーションになる。いろいろと実験的なことをやっていきたいので、音楽に携わっているみなさま何卒よろしくお願いします。

 

今日、youtubeM-1をみた。誰が好みとか、内容に関して、ああだこうだと個人個人あるだろうけど、なんかめっちゃ感動した。負けてしまったときのスーパーマラドーナさんの感じとか、ギャロップさんの終わったときのコメントとか。

芸事に生きているなあと。力をもらった。自分も邁進しよう。

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諦念風

諦念風

 

YMOを聞いた時の未来への期待感や子供の頃に侵入したあの工場、突然の惑いは走馬灯を呼び起こし、次の場面を思い起こす。ただ感傷的に偏るだけでは芸の道具となるのだ。生命は外枠を見つけては安堵するのに、デジタルにアナログ、最新に懐古、アップデートした世界へといざゆかんとしよう。

 

充血したその目が、私を捕えて離さない。何かの「ふり」、誰かの「ふり」、ままごとに猿まねが横溢していると張り巡らした「ふり」の思考が言うのだ。

物の怪が存在すると信じられる、人智には到底及ばない、傾倒できる心がうらやましい。その心さえあれば残してしまったものさえ釉薬のような役目を果たし、侵されずに耐えられるはずだ。昨日と似ていると感じてしまった瞬間から、時間が死ぬのだ。

  

ゆっくりと引き伸ばされた高音のように耳をつんざめき、漕げども漕げども同じ地点なのだ。父親が教えてくれた自転車の乗り方。あの日の車輪を思い出せ! 

世捨て人は世捨て人の理由があり、世間には世間の言い分がある。綜合し判断すれば矛盾か明晰な理論かどうかは取るに足らないらしい。信じれるものだけが救われる世界を創ろう。さあ、ともに!違和感と希望はこんなにも近いのだから! 

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おもってもいない愛想笑いは、表現を殺していくだけ

表現

 

小林秀雄さんの本を読んでいて、「誰が物を眺める時、観察と感動とを切り離さうといふ様な不自然な事を敢て行ふだらうか。僕等が世の固有名詞といふものにのっぴきならぬ愛著を覚えているといふのも、要するに僕等は多かれ少なかれ生まれながらの叙事詩人であるが為だ」という文に出会った。

 

しばらく前に、表現は「どれだけ素直に自己をだせるのか」というところにあるとテレサが言っていた。その言葉とクロスオーバーした。

 

少し飛躍だけど、より本能を出していくという意味では良い表現のためには動物に近くなっていくことなのかと。と、なるとやはり自然というものを放っておくわけにはいかない。自然信仰と芸術というのは、決して遠いところにいないと思うので。

 

ただ、同時に動物自身がアート的なのを生み出すものか、という疑問も湧く。考えを巡らせる人間が自然に傾倒していくからこそ、つまり、「動物に近づく」のではなく「資本主義と離れる」からこそ生命力のある作品は出来ていくのではなかろうか。

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ちょいと話を巻き戻し、目に見えるものと見えないものというのをどれだけの比重で生きているのか、というのが結局、自己を出すことにも繋がるように思う。

見えるものと見えないもの、物質と精神と言い換えられよう。日常を精神的な部分に支配させるのか、物質的な部分に比重を置き、リッチマンを目指すのか、と、そのバランス。

 

疑問は尽きぬが、ただはっきりとおもってもいない愛想笑いは、表現を殺していくだけ。あと、多分、自分の価値観が誤解を持って伝わり、苦心する。経験からそう感じる。一流の表現者になるには、なんとなくの着地点を見つけるという行為を減すべきである。ある種、犠牲が伴うけど、とりあえず、押し殺すのは罪と設定しておく。