帰り道の描写
帰り道の描写
カバンを手に引っ掛けて帰路に着く。何十年と昔のカントリー音楽を聴く。どこの土地で生まれたかも知らず、もちろん、その地に行ったこともなく。その音楽は電車に揺られていようとも、新緑に囲まれたかのような心持ちにさせてくれる。
座席からふと上を見る。透明のガラスになっていて、隣で眠っている人の後頭部が映る。真横にいるのに上からも見える。鏡とはまた次元がひとつ違うのか。首をひねり、後ろにある駅名の書かれた掲示板を確認する。目的の池袋まであとひとつ。
革靴だらけの車内は混雑し、みな一様に携帯電話をいじっている。情報収集をする人。娯楽としての動画を見る人。どこからの続きを夢見ているのだろうか。空想とともに改札機に財布をかざし、さっと通り抜ける。4番ホームを目掛けて歩く。階段に差し掛かるが左右と足を動かし、段差を埋めていくだけ。
聴こえていた音楽もいつの間にか、次の曲へとうつっている。空想に耽る時間を聴いていないと仮定すれば、1曲とはどれくらいの長さなのだろうか。考え事に区切りはなく、ファジーなままに連なる。
乗り換えようとも、気になるのはなぜか周囲である。となりにいる恋人は頷きあい、笑っている。また、そのとなりにはつり革を持ちながら、眉間にシワを寄せ小さな字を追っている中年の男性がいる。今、乗車している埼京線も、1日中、レールをいったりきたりし多くの人々を運んでいる。誰しもがどこかへ。
形状記憶でもされているのかと疑うほど、何気ない日々を塗り替えるのは難しく思う。派手さや地味さ、手にした少しの新鮮さ、また飛んでいく。
みんなと「肩を並べられる」安心感は麻薬的だ
ふと
経済は経済ってみんなが思うから成り立つ概念。この概念により、選択肢の幅を破壊されてはいないか。馴染めないという心が生んだ言い訳のように聞こえるかもしれないが、もう少し多様性があってもいいかと。
別の時間が流れている場所は探せば確実にあると思うけど、相当、目を凝らしていないと、そもそもその時間感覚に気づけない。優劣の話ではなく、平等に選択肢があってもいいのではないかと思う。
みんなと「肩を並べられる」安心感は麻薬的だ。だって、自分だけではないもの。個人個人の選択に横並びという概念が常に含まれているようにも感じる。
尖ることが表現のすべてではないけど、そういう言い表されない感覚を詰めこんで。パターンを押し並べても、そこに人の感覚があってこその、と思う。その反面、一人で考えたことや感じたことでも、関係性、つまり相対性の中にしか、物事は存在しないという。(主観の感覚を真実と仮定すれば、人の数だけ真実がある、となる。)
と、感じたままに綴った上記の文も、もはや幻想なのかもしれない。
時たま古本屋で見かける藁半紙。持ち主を転々と変えて、誰かの手に届くまではそこにずっと佇む。そんな感じで、流れるように。喜びも皮肉も、慈しみも、悲しみも、毎日、等身大を表現して。
私は情報ではなく矛のきっさきを感覚に向けて、言葉に落とし込む。
執
生きるための金を得ようと、日々や時間に追われ、思索のない時間を過ごす。突如、想像を膨らませても、そこでは美しき描写は浮かばない。
悲しみは心に残りやすいせいか、思い出しやすいもの。人間とはよくできている。心象も安定していると、感情の引き出しを見失い、想像力に欠ける。悲しみをそのまま表出させるだけでは芸がない。同じ力でどういう感情へと変化させてやるのか。そこでひとつ、技術が顔を出す。
技術は心を表現するための変換器。磨いてやらないと。伝える努力を惜しまないとは、技術の研磨に抜かりがないことなのかもしれない。言葉にしてしまうと、さらっと書き出せても、その裏には泥臭さがせめてあれば。それは、もはや長い目でみた執着なのかもしれない。志といえば聞こえはよいが、とどのつまり、様々な角度を見た上でのしつこさ、みたいなものかと。
もっと世界に散らばる具体的な情報を駆使し、文章を構成すれば、情報としての価値も見出され、人を惹きつけるものになる。例えば、サンゴ礁の性質やコンピュータの仮想化について。大まかに前者は身を守るためのものが多く、また、後者は資源を効率よく使い、無駄を省くため。
理由というのは、人間に合点がいったと思わせられる、つまり、思考に決着をつける、ひねくれてみれば理由は事実であり錯覚でもある。私は情報ではなく矛のきっさきを感覚に向けて、言葉に落とし込む。
とある、商売人は言う。「根負けや、そのしつこさには、頭が上がりませんわ」