日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

諦念風

諦念風

 

YMOを聞いた時の未来への期待感や子供の頃に侵入したあの工場、突然の惑いは走馬灯を呼び起こし、次の場面を思い起こす。ただ感傷的に偏るだけでは芸の道具となるのだ。生命は外枠を見つけては安堵するのに、デジタルにアナログ、最新に懐古、アップデートした世界へといざゆかんとしよう。

 

充血したその目が、私を捕えて離さない。何かの「ふり」、誰かの「ふり」、ままごとに猿まねが横溢していると張り巡らした「ふり」の思考が言うのだ。

物の怪が存在すると信じられる、人智には到底及ばない、傾倒できる心がうらやましい。その心さえあれば残してしまったものさえ釉薬のような役目を果たし、侵されずに耐えられるはずだ。昨日と似ていると感じてしまった瞬間から、時間が死ぬのだ。

  

ゆっくりと引き伸ばされた高音のように耳をつんざめき、漕げども漕げども同じ地点なのだ。父親が教えてくれた自転車の乗り方。あの日の車輪を思い出せ! 

世捨て人は世捨て人の理由があり、世間には世間の言い分がある。綜合し判断すれば矛盾か明晰な理論かどうかは取るに足らないらしい。信じれるものだけが救われる世界を創ろう。さあ、ともに!違和感と希望はこんなにも近いのだから! 

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