芸術と哲学・・。 「別次元の何かを創る」ことと「世界を徹底的に見直す」こと
「綺麗が絶対的ではないのねん」と思った今日この頃。
Sutherland Borthersという70年代のイギリスのバンドのアルバムをふと聴いていた。なんか、ビートルズの音源とかもそうだけど、懐古させる感じがたまらない。ここには「昔の方が良かった」という内容うんぬんかんぬんではなく、懐かしいという情感が入り込んでいる気もします。
このMVの背景とか・・なんだか、ほっこりする。\(^-^ )
昨日と今日で思ったこと
ある哲学者が、哲学をするとは「子供の目を持って世界を見つめる」というようなことを言っていた。社会学に政治学はもちろん、思想や芸術さえもある前提に立って成り立っていると思われる。
逆に、前提の前提とどこまで対峙するのか!といったところに哲学ポイントはあるわけでしょうか。自分はどうだろうと振り返った時、その分け方をされるとそんなに哲学をしていないなと。
すごく大雑把に・・世界に疑問を持ちしっかりと抽出するのが哲学、次元の違う宇宙的なものを創作するのが芸術なのかなと。宇宙という表現がしっくりくるかはわからないけど、「別次元の何かを創る」というのはすごく腑に落ちる。「世界観」があるのが好きな人は、その別次元の世界に惹かれているのだろうと思う。
最近、キングオブコントを見て・・Youtubeでお笑いを漁っています。
キャラクター性を含め、かまいたちの山内さんとか天竺鼠の川原さんとかすごい惹かれる。小生は、どんなジャンルの人でも別次元の世界を構築していると感ずる人にハマりやすい。
哲学とか理論の曖昧性と芸術の曖昧性は、全く別個のもののような気がします。前者の曖昧は落とし所や理解への手助けとして、言語を駆使した曖昧性と言いますか、後者は押し出された曖昧性といったらいいのでしょうか。
そんな感覚が宿っていますが、これを的確に具体的に言語化するのが難しい。なんだろうこの感覚。もうすぐ、何かが産まれそうな直感。今日はお休みなさい。
「人と何かをするということ」 そして、周囲の好きな人を「ぐわんっ」と連れていきたい
人と何かをするということ
「人と何かをする」というのは、簡単じゃないけど「生きていると感じる瞬間」「何にも代えがたい興奮」みたいなのが潜んでいるはずだ。きれいごととかじゃなくて一人じゃないんだと。完全に個人的な考えだけど、一人で例えうまくいっても感動の頭打ちを迎えると思う。
「みなで、成し遂げた瞬間というのが一番の快楽」というようなことをケンシロウさんが言っていたけど、まさにそうだなと思う。
価値観が似ているも、違う人間なのだから完全に一致することはない。だからこそ、尊重する気持ち、相手を受け入れる気持ち必要なのかなと。悲しいかな、尊敬できる部分がないとその気持ちが揺らいでしまう。「尊敬できる部分」と言ったが、それは相手に存在するものではなく自分が見出すものと思われます。
自分もろとも、周囲の好きな人を「ぐわんっ」と連れていきたいんです。「どこに?」と言われると難しいけど、こう・・「ぐわんっ」と。すごく感覚的だけど、それは心の芯にある。なんという感情なんだろう。それか、普通に寂しがり屋のオッサンなんかもしらへん。
まだまだ前進、前進。全身全霊、変身宣言。
考えても仕方のないことを考えるぐらいなら、出来ることして好きと思える瞬間に触れ合う。まだまだ満足はしていないけど、自分がやり甲斐のあることに熱中できているという意味では充足しているし最高だ。譲れないところは譲れないけど、譲れるとこは譲りまくるという柔軟で頑固な性格をしていますが、とにかく、好奇心の赴くままに。
寂しがりやのおじさん、頭の中で描いた将来の絵を現実にプリントアウトする。
こういう日が僕は生きてる
いやあ、大人ってすごい。
最近、尾崎友直さんを聴いていて、どんな方なのかなと。。
そして、友直さんがやっているBar earに行きました。「渡る世間は音ばかり」というイベントがやっていました。自然に、ありのままに、いれる。社会で色々と感じることも無駄じゃないんだなと思った。
それぞれが真の意味で、自由で素敵すぎるコミュニティだった。「人生、捨てたもんじゃない」と。そして、逆に、野望を抱くのは若者の特権と感じざるを得なかった。
ある意味、今のもがくこと、楽しむことは、間違ってなかったと確信させられた。こういう心臓が踊る日は死ぬほど生きられている。
こういう日を迎えるために生活をするんだ。とね。今日はもう、興奮しすぎて
しゃべられへん( T_T)