日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

抽象ばかりではなく、具体性の溝を掘る。

過ごし方

 

曲を作っていると、果てしなさを感じる。
YOUTUBEをみればhow toがそこいら中にあり、やる気さえあればお金をかけずとも創作は始められる。しかし、それは始まりの扉に手を触れたのみ。やりたいことがたくさんあるので、ひとつに対する向き合い方が甘くなりがちだ。時間の問題でもあるが、気持ちの面も大きい。どういった話の流れかは定かではないが、鎮座ドープネスさんがインタビューで「楽しく悩む」とおっしゃっていた。

  

興味の目を見開いて、毎日、高校3年生の受験シーズン並みに過ごす。到達していないスキルに悔しさを覚える。執着は場合によって醜くもあり、美しくもある。満たされず、奥底に悔しさがあるから湧き上がるものがあるのだけど。そして、プロセス、内容に興味が湧いていないとどうしても続かないのではないか。好きこそものの上手なれとでもいいましょうか。毎日、同じ場所にいる生活に慣れは必然であるが、目の開き方によってはいくらでも新鮮さは転がっている。

 

今の所、自分の手は2本で指は5本、すでに定められた中で何を成すか。 と、大それたことは考えずとも、より深さを求めていく。求めていけば、持ち合わせた感性は(時に支離滅裂を生んでしまうかも)好奇心へと化けられる。加えて、内なる闘志とは決して排他的な行為ではない。そう他人をアップデートすることはできない、常に自分に標準を合わせ撃ち抜く。抽象ばかりではなく、具体性の溝を掘る。日々をより深く核心と共同的に過ごす。 

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