日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

「人と何かをするということ」 そして、周囲の好きな人を「ぐわんっ」と連れていきたい

人と何かをするということ

 

「人と何かをする」というのは、簡単じゃないけど「生きていると感じる瞬間」「何にも代えがたい興奮」みたいなのが潜んでいるはずだ。きれいごととかじゃなくて一人じゃないんだと。完全に個人的な考えだけど、一人で例えうまくいっても感動の頭打ちを迎えると思う。

 

「みなで、成し遂げた瞬間というのが一番の快楽」というようなことをケンシロウさんが言っていたけど、まさにそうだなと思う。

価値観が似ているも、違う人間なのだから完全に一致することはない。だからこそ、尊重する気持ち、相手を受け入れる気持ち必要なのかなと。悲しいかな、尊敬できる部分がないとその気持ちが揺らいでしまう。「尊敬できる部分」と言ったが、それは相手に存在するものではなく自分が見出すものと思われます。

 

自分もろとも、周囲の好きな人を「ぐわんっ」と連れていきたいんです。「どこに?」と言われると難しいけど、こう・・「ぐわんっ」と。すごく感覚的だけど、それは心の芯にある。なんという感情なんだろう。それか、普通に寂しがり屋のオッサンなんかもしらへん。

 

まだまだ前進、前進。全身全霊、変身宣言。

考えても仕方のないことを考えるぐらいなら、出来ることして好きと思える瞬間に触れ合う。まだまだ満足はしていないけど、自分がやり甲斐のあることに熱中できているという意味では充足しているし最高だ。譲れないところは譲れないけど、譲れるとこは譲りまくるという柔軟で頑固な性格をしていますが、とにかく、好奇心の赴くままに。

 

寂しがりやのおじさん、頭の中で描いた将来の絵を現実にプリントアウトする。

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