「なるべく本音で生きよう」 帰阪でより強く感じたこと
気づけば、2016年も永久睡眠に入ろうとしていますね。
新しい年、2017を迎えようとしているわけです。
2017て・・。2017て・・。めっちゃ、進んでる(´Д` )つ
2000年なんてとうの昔のことのように感じる。
「2017」この数字を見ただけで近代的な気持ちになる。
うん、「近代的な気持ち」ってなんだろう?
「You are my SOUL!SOUL!いつもすぐそばにある」と嵐が言っていたのが1999年。
同級生の女の子が桜井さんのかっこよさを力説していた思い出がある。あれから18年・・。全然、すぐそばにない。
いつだってシンプルに
大阪に一瞬だけ帰ってある友達と会った。
その友達とは疑り深いという絆で繋がった友達といいましょうか。
人間の根源を考えるフレンドといいましょうか。はたから聞いたら「何、言ってんの?」的な生産性のない話をよくします。
居酒屋で「人間は息を吐いて吸って動いているだけの生き物。なので、死というのはただの状態変化。そう考えれば人生、色々と挑戦できる」というようなことをウイスキー(多分)を飲みながら友達は言っていた。言われてみれば・・!「なるほど」と思った。その反面「何言ってるん?」と思った。
しかし、友達に「何ゆってるん?」と思う一方、僕も「何ゆってるん?」と思われる発言をよくする。
そう、彼とは何ゆってるん友達なんです。
昔からよく2人でコンコンと話をしていました。
友達というか、もはや身内です。
何が言いたいかというと、そういう関係でいられることに感謝です。
感謝ついでに、、、「生きていることに感謝です!!」と言いますが、死んだことがないのでその言葉がどうなのか僕はわかりません。
病気などで死に近づいた時には、そういう気持ちが生まれるのかもしれない。
そういう風に「比較対象がないと感謝も生まれない」のではないかと思う。
本音で話せる身内みたいな人に感謝しているってことは、それ以外の人がいるということなのか。
感謝はそのそれ以外の人の犠牲で成り立っているのかい。(これは飛躍しすぎですね(*_*))
もしかしたら、感謝はそういう図式で成り立っていると考えると自身の残忍性を認識し切ない気持ちになる。
ただ、そう思ったことに対して、そう思っていないと心に浮かんだ事実は消せない。なんと、正直な若造。
そして、それらをいちいち言う必要があるのか。という疑問も残る。
「性格、悪っ!!」って思われそうだし(´Д` )(´Д` )
それならなぜここに書いたのか。。
その友達は「ブログにしろ、なんにしろ、人に本音を伝えるのはとても勇気がいるよ」と言っていた。
これを真に受け、本音を書けば自分は勇気があることになるのだ!!という何とも単純な考えに立って、書いている所存でございます。
本音と建前を使い分けすぎると、矛盾が生じるし、判断まで時間がかかる気がする。
そういつだってシンプルに。