日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

「回廊日記」 2021.03.07

「回廊日記」


思考の道筋などというそれらしく見える言葉を標榜し書いていくのか。
物事の最初の、取り組むときの興奮している状態、どこか名の知らぬ海岸沿いからみた水平線のように境目をみつけ、初期衝動と名付けられた有難い言葉にあやかるのか。一言を捕まえて螺旋(横だけみると何も変わっていない)の階段、上り下りをずっとしている、つまり、ひたすらに言い換えているだけで、現状維持、時間が経過することを鑑みると、もはや後退していると言っても過言ではない。

 

ストレスの発散を作品とするのは、お菓子売り場で子供がだだをこねているのとそう変わりない。そうわかりつつ童心を都合よくとらえ、それさえも人を惹きつけようとする卑しい本能的エンターテイメントとして、全くのごまかしの類と自負しているが、辞められない人間の性(人間という言葉を使い大きいイメージをつけようとする、注意深くみればそこら中に転がっている論法)を曲解させ、1000文字ほどの文章を書く。

 

心象記と名付け、ただ感覚の一部を切り取ったブログを書いていたが、根本的には今回もそう変わりない。ひとつの文の雰囲気としての書き方は覚えたとして。
ただ、歳をとって曖昧でもよいと思えたのである。青年の激情、まさに劇場から脱出し、大人の戯言、願わくば創作のある一部の接点になれば願ったりかなったり。書く行為をただ続けていたい、書いているときは頭がすっきりとする。それは言葉に落とさなければならないという前提があるからと思う、集約させるというか。人に見せる作品がストレートな浄化行為というのはシェフとしていかがなものか、という気持ちを持ちつつ、理由が死ぬほど個人的である。


一度、「心象記」の続きとして「智慧の記」と名付けてブログを書いてみたものの、似合わない服を着ているときの違和感、サングラスを張り切って掛けてみた中学3年生のような気持ちがぬぐえなかった。今回は「回廊日記」と名付けてみた。目的の部屋にたどり着く気もなく、どこか好きでウロウロしている。どこにも辿りつかず、ただ廊下をうろうろしている、怪しさの中にひっそりと光る勘違い。玉石混合、一旦、原石と設定したものをみようとする。好きな人の文体(思考)を模倣しようとするのではなく、本来の意味で落としこんだ言葉で書くようにする、そうしないと自分で設定した探し物がみつからない。

 

何ともあつかましいが、思考することが癖になっている人や創作に携わる人の頭の片隅に異物を残したい。また、そういう話が出来る人と繋がりたい。豊かに。

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