「優しいことが正しいとばかり思っていた。だから、記憶、なくなるのか」
空っぽの頭に、釘を打たれたような衝撃がある。数日感の記憶はどこかへ消えたが、僕はここにいる。同時にベンチに腰掛けホッと一息をついたような安堵感もある。その境界をふらふらとしている。 家の扉を開け外に出ると、濁った色の上履のような曇り空が、一面に広がっている。
思い出は忽然と姿を消すが、きみは確かにいると確信し歩く。寒い春、傘を差して駅に向かっている。行きつけだった小さな蕎麦屋さんのシャッターが閉まっている。いつか、潰れるだろうとは頭によぎっていたけども、このタイミングとは思ってもみなかった。
「優しいことが正しいとばかり思っていた。だから、記憶、なくなるのか」
きみに会いに行くことと関係のない思いばかりが浮かぶ。駅までの道は遠い。踏切りを待つあなたはずっとそこにいるはずだと、僕はまた決めつける。
イメージimage
2020/05/17
事象には作り出された概念と肉体を伴う実践としての、ただそのものがある。入浴している最中に「入浴している」とあえて認識することと、入浴していない時に、入浴をイメージすることは違う。そのイメージには色がついている、各々がつけた色である。行為ではなくて、イメージへの色の付け方が個性をはらんでいる。形式は同一であったとしても、諸々の感覚は違ってくる、多分。
表現はその差異を明らかにし、また新しいイメージを想起させていく、無限の連鎖のようなものだろうか。無意識を泳ぐ。無意識は海のような広がりがあるとイメージする。「泳ぐ」という言葉が選択されても違和感がない。その言葉に内包される、共通認識とされるイメージを想起させていく。会話中の「なんとなく言いたいことはわかる」というのも、無意識下(?)では、直観できているのではないだろうか。芸術作品はそういった部分を刺激していくものなのだろうか。的確に捉えてはいなくても、諸々が含まれていたりする?
言葉、細部をみれば微妙に違う赤色だが、それは赤色であり共通的に赤色を想起させる。作者と受け手の認識。
それを行うための方法として、対象への自己投影か。創造の連鎖はどこへ運んでいってくれるのか、行く先知らず、創り続けて、そこには何が住み着いているのか。歩いたり、歩くのをやめたりして。
特筆すべきのない平凡なふたり:寿司の写真を貼ろう。
物語中の会話は想起させる力が強い。登場人物が今まで生きてきた感性、“その言葉を選んだ”というところ、すべてを含んでいるかのよう。
「梨をひとつ食べるよ、私にも」「蝶々のように、とんだりして。」
「酔っているだけよ、いつも」「窓の隙間から入る光みたいね。」
「その傷はいつ頃からあったの」「本当は、自分のあざとさが好きなんだよね」
「そんなのだから、いやなの」「ありがとうね」
会話だけおこしても全然違う。どうしよう。寿司の写真を貼ろう。
あきらめず、間に会話以外をはさむ、下記、練習。
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あっけらかんとした京子は食い意地が汚く、欲情に流されるとき、眉をぴくりと動かす癖がある。
「梨をひとつ食べたい。私に」
共同生活を行う保育士の奈美子は、青白い顔をしている。いつも後手に回り、ほそぼそと言う。
「蝶々のように、とんだりして。」
食器棚から割のよさそうなグラスを取りだす。英語を上手く話せなさそうな老人が働くスーパーで買った大きめのロックアイスをそこにいれる。
「酔っているだけよ、いつも」
あきらめや卑しさのないトーンで京子は奈美子に言葉をかえす。続けて、記憶をひとつ頬張り、「窓の隙間から入る光みたいね。その傷はいつ頃からあったの」と矢継ぎ早に奈美子に話す。
「本当は、自分のあざとさが好きなんだよね」
その声はすっかりと震え、京子には愛嬌とすら受け取られる。
「そんなのだから、いやなの。でも、ありがとうね」
特筆すべきのない平凡なふたり。