日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

知りたいと思うには全部違うと知ることだ

2020/05/12

 

表現は心理が反映したものであるのか、という初期のような問い。結びつけるそのものが音楽であったり絵画として。自然を愛でた詩も自然へ心理を投影したものか。自然は当たり前のように、多くの人の主題となる。普遍的な存在なのか、同じ世界にいるからなのか。同じような現象を、言葉を言い換えて説明する、それは無駄なことのようで、新しいものへの探求とも思える。

--

知りたいと思うには全部違うと知ることだ

--

星野源さんの"くせのうた"の一節。知りたいというあからさまな欲求は不安を抹殺するために生まれてくるのだろうか。ひとつを知るために、そこから少し外れたものを知っていく。遠回りのようであり、探求する行為には深い愛情があると思う。
何事においても「好きが伝わる」とすごく良いなあと自分は思う。そこから少し外れたものをたくさん知っている人は魅力的にうつる。そういうものを含蓄というのだろうか。

写真は読んでいるフクロウの本から。

f:id:sasaworks1990:20200512231825j:plain

 

眠り起きる限り、つづく。

2020/05/09

 

大型の連休により、日常を丁寧に過ごしている。気まぐれに歩いて調べ物をして、創作している。休みの後半から逆算することをやめた。

空間が変形してこちらに襲いかかってくるような体験をした。所詮、描いた理想は幻想のようなものであり、少しずつ壊れていくのを観察する時間にはなるが、自然に選択した行動以上の有意義さはなかったかのように思う。現在の状態の方が日常にある尊さのようなものがよく見えてくる。散歩がてら、半年前くらいに買った黒い自転車にまたがり、そこら辺りをうろついている。ものめずらしい建物はなくとも、連続する造形物を統合してとらえたときに、ひとつの調和となる。よく見れば何気なく乗っていた自転車もいい形をしている。複数の銀色の線が、ひとつの円の中心から伸びている。自転車の骨格をなす部品は光沢のある黒で、いやらしい色合いでもない。

 

調子が悪い時より後ろめたさを感じなくなっている。全体としての一部と感じ、存在の希薄さに罪悪感をあまり覚えない、変化だろうか。無意識の層が引きずり出されるような体験は新しい表現を生みだす気もするが、他の道からも辿れる気もした。眠り起きる限り、つづく。

f:id:sasaworks1990:20200509231004j:plain

 

トライコームとよばれる葉に生えている産毛が白くうっすらとみえる。

2020/05/07

 

網の目から覗かれたインスピレーション、道路を横断する無数の車と遮断された通信。

俯瞰すればジオラマ。右心室と左心房と名付けられたところ、部位の変動や扁桃腺の腫れ模様。あらゆる種を隠し持つ地下の空気の肉体。ともに並ぶと大きさや小ささになり、無数の比較に顔を埋める。薄めた効能に縋りつきあい、踊る。寂しさのない天には、喜びの線。鎖帷子に腐った花びらに語り合い。愛しあいしかしない理解と今日もいる。

ハッと我に帰れば18時前、陽が沈みかかる。家の側の大通りを歩いていると、左手に鞄を持ち帰路に着く人たちがちらほらみえる。自粛期間、トンネルの長さもわからないままに暗澹たる思いもあれば知恵や工夫もある。久しぶりに葉の写真を撮っていた。自然に流れを作り全体を覆う脈は可能性に似ている。トライコームとよばれる葉に生えている産毛が白くうっすらとみえる。そこには生まれ持った線をただ伸ばしていく作業のような生命力がある。


緑と黄色がさまざまな濃淡で、表されている葉があった。その一部分は枯れていて新たな模様をつくっていた。

f:id:sasaworks1990:20200508004625j:plain