KダブシャインさんのTwitterを読んでいて・・&「ライブの雑感」
根付く
「感性や機微により捉えてほしい作品」を「見る人の数」にメディアは集約する。
商業主義的な作品である場合、需要と供給はマッチする。資本主義社会に芸術を取り入れようとすると、少なからずそういった構造を知る。芸術は「数」ではなく、感受する物差しが基本的に「個」である。ここにマッチしない性質があるのではないか。
また、人によっては、難解、敷居が高い、生活に特に必要がないというのもあるかと思います。確かに、知的好奇心や共感する瞬間がないと興味が持てないかと。
そんなわけではありますが、k dub shineさんの記事を読んで、純粋に「正しいものが正しい形で伝わってほしいな」という感想を抱きました。
曲解した形ではなく社会に根付いてほしい。
パターンを組み合わせた、貼り付けた資本主義的土俵じゃない方の「個」としての作品が。
上のまとめを読んでいると、本質を突いたマイノリティを「面倒くさそう」的な感じで済まされているのも、、なんだかなんだか。伝える側の工夫等もございますが、文化が社会に根付いてほしい、資本主義と別にもうひとつの世界を持っている方が、個々人にとってもより豊かな人生なのじゃないかなと考えております。
話はそれますが、「個」の作品とは虚栄心が転じてという部分が多少なりともあります。その「虚栄心」は場合によってはカリスマになり得る事もありますが、破滅を及ぼす匂いもします。
(これもk dub さんがRTしていて、まさにだなぁと)
個性を超克するところにのみ生れる本当の美の領域では、虚栄心はほとんど用をなさない。
— 三島由紀夫 (@Mishima_Words) 2018年4月9日
そこではただ献身だけが必要で、この美徳は芸術家と母性との共通点だ。
虚栄心ではなくやはり献身を込めたいものです。
土曜日のライブ 雑感
久しぶりにライブをした。身体が借り物のような感覚で、自分が自分ではないような、2人いるような感じでした。
底から絞り出した言葉が出てくる。自分に落とし込めた言葉以外は出せない。日常の気持ちが凝縮される瞬間、ワンシーン。何に感謝し、何に怒り、何を恥じとするのか。人間が吐き出される、ライブ。
音源にはない「生」の体験。
それは日々の営みのようであり、普段の所作が丸出し。言葉を免罪符として使用できない。やはり、飾り立てただけでは伝わらない。しかし、ライブは楽しかった。恐ろしいことにライブを楽しいと感じたのは、初めてかもしれない。自身の表現方法を掴んできたような。自らの感性をやっと誇れそうな気がした。
視野が狭くなりそうならば、そもそも音楽が好きだという初心に帰る。その上に積み上げていく。自分は「接した人が良い風になってほしい」と思うが、その中でライブというのはどういう位置づけなのだろう。
「発信者の鬱積とした感覚の消化」と「聴く者の日々のわだかまり」の関係がプラスマイナスであればと、考えてしまうのも未熟な気が。誰の正義でもなく、もちろん自分の正義とかではなく、正しい力の使い方をしたい。
「客観性に収斂する」という座右の銘を忘れずに。与えられたものか、構築していったものか、どちらでもよく。とにかく今は曲を作って、活動的に出力。