依存には人間らしさも含まれている
2019年6月2日
今週は自分の身の回り、言ってしまうと身内の方とゆっくりと腰を据えて話すことが多かった。それぞれ手法は違えど、表面的な結果より、何か根源的な問題について考えていた。腐れ縁、同士。そして、悲しさの中に"美しさ"を見出す感覚を持っている。物理的に近くに住んでいるとかではない、それでも共同体のような。
最近は精神的に堕ちる頻度が少なくなっている、と思っていたら、そんなことはなかった。なぜ堕ちるのかは未だに解明できないが、堕ちないように過ごす方法を自分なりに見出している。それは、言ってしまえば依存。自分の場合、それは不健康になるものでもないので、特に問題はない。人は何かしらに依存する。その依存の対象が信仰であったり、アルコールであったりするのではないか。依存には人間らしさも含まれている。
そういうのも全て、資本主義が生んだ弊害というのは無茶な仮説であるが、資本主義とはいったい何なのだろう。考えていても、日本を離れないと見えてこないと思っていたり。音楽は嘆きであったり祈りであったり、原始的、神秘的、そういった性質と親和性がある。それは違う側面から見れば、仮定されたものでありもはや幻。仮説を複合させることによる曲芸のような。トリップ。
資本主義は上記のような感覚が大事にされていない。ただ、一億総トリップしていたら、経済的発展はないと思う。共通する感覚を「国」と捕えると争いはなくなるのか、それはそれでまた始まるのだろうか。
「分類、体系化させること」と「考えるということ」
薄々気が付いていたけど、自分は整理整頓するのが好きみたい。モノを集めたくなるのも、体系的に物事を捉えていきたいあらわれだろう。以前は体系化させる前に、その好きなことに届く前に感情が横槍を突き出して、その行為に至らなかった。
読むのも聴くのも、浴びていたという表現の方が適切だった。以前、ほりぐっちゃんが「時間をかけて一文を味わう」というようなことを言っていた。自分は真逆で、とにかく量で攻めていた。それらは記憶にほとんど残ることはなかった。ただ感性には多大なる影響を及ぼしたように思う。
最近は落ち着いたのか、衝動的な感性は鳴りを潜めている。そのかわり一つのアルバムや一つの仕組みやらを噛み砕いて、つまり、体系化させてその中に組み込みながら、味わっている。分類や体系化させることと考えるということは、同義語ではなくとも近しい行為のように思う。
知識があると物事が立体的に見えてくる。感情に蓋をされていた知的好奇心を取り出せるようになってきた。最近になって、大人って楽しい、という意味が少し理解できたような気がする。