日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

創作にとって情報を得るとは新たな素材を貯蓄すること

とにかく感情から逃れるため、言葉を浴びていた。それは同時に感性を高める行為に成っていたように思う。最近は全くそうじゃない。純粋なる知的好奇心。そこにあまり自我が入り込んでいない。これは年齢の賜物か、感覚の頭打ちか。

 

甚だ不鮮明ではあるけど、情報が感情をあまり伴わずに入ってくること。驚愕。結びつける発想力の前の、結びつける素材を知ること。情報を得るとは創作にとっては、新たな素材を貯蓄することでもある。あまり目的めいたものにすると、純度が下がるけども。骨組みとしての抽象的な概念まで落とし込まなくても、具体的な情報をそのまま丸呑みにする感じでいければと。

 

それは、執着をシンプルな力に変換する作業でもある。執着はとてつもないエネルギーを持っているけど、雁字搦めになり独断的になりやすい。

 

動的平衡という言葉がある。
以下は生き方を動的平衡になぞらえた生物学者福岡伸一さんの言葉。

”川はいつもそこにあるように見えるが、流れている水は二度と再び同じ水ではないとしている。そういうものとして生命があるのが動的平衡で...”

 

わたしとあなた、影響し合う関係性は同じなれど、時間が経てば全く違う人同士である。執着はそう言った自然な関係性を止めてしまう可能性が高い。変換するならばあくまでもいい方向に。

心象記 1

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注連縄

注連縄

 

いつからそこに ぞんざいに扱われた境界

あなたとわたしを分け隔てるもの 例えば明と暗

関係を築き浮き彫りにする 躁に踊らされ鬱に苛まれ

首の長い麒麟は 葉を悠々と食べる

  

その領域に手を伸ばし掴もうとする 曲線の言語化

遠くからの叫び声のように 柔らかい心に触れる

円柱の周囲をいくら回れど 再帰的であり同じ夢の中

明朗で陽気な人々と煙を燻らし 精神の昂りを感じた

 

暮らしは余計に時計を重んじ 知らぬ扉をこじ開ける

心の根は唄になり  境目はやがて溶けてなくなる

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精神と詩に盃を

言葉

 

週末は言葉をあまりにも浴びすぎた。
詩の朗読のライブにも様々な型があると知った。これまで朗読を生で見たことがなかったから、とても新鮮な体験。スタイルは様々であるが、純粋に詩が好きで、音楽でいうところのDJ的なやり方もあるのかと。また、言葉の自由度を改めて感じた。同時にライブは嘘をつけない。向き合った時間が、明らかに空気感にでる。

 

逆にいえばどれだけ神妙な表情をしてみても、仕方のない。向き合った方が価値が高いとか言いたいのでは全くない。ただ、向き合った時間や心とアートは関連していて、私はそういう立場に。そこから生まれるものこそ純粋なるものなのか、資本や批評のない協調性とはまた別なもののように思う。

 

それらしくみせるからくりも、もちろん大切だけど唯一無二のその人の型。何かしらからインスパイアを受けたとしても、その人自身に落とし込んだ表現には目がいき耳がむく。

 

なぜそんなことを思うのだろうと考えてみた。とにかく自我を保つために必死なのだろう。その理由はどこか情けなくもあり滑稽である。思ってしまうことを消すのは不自然であるから、これまたどうしようもない。

 

精神から生まれる作品に惹かれる、言葉や思考に興味があるのも、「人間である」ことを意識しているからなのか。少し己を知れたような週末。精神と詩に盃を。

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