精神と詩に盃を
言葉
週末は言葉をあまりにも浴びすぎた。
詩の朗読のライブにも様々な型があると知った。これまで朗読を生で見たことがなかったから、とても新鮮な体験。スタイルは様々であるが、純粋に詩が好きで、音楽でいうところのDJ的なやり方もあるのかと。また、言葉の自由度を改めて感じた。同時にライブは嘘をつけない。向き合った時間が、明らかに空気感にでる。
逆にいえばどれだけ神妙な表情をしてみても、仕方のない。向き合った方が価値が高いとか言いたいのでは全くない。ただ、向き合った時間や心とアートは関連していて、私はそういう立場に。そこから生まれるものこそ純粋なるものなのか、資本や批評のない協調性とはまた別なもののように思う。
それらしくみせるからくりも、もちろん大切だけど唯一無二のその人の型。何かしらからインスパイアを受けたとしても、その人自身に落とし込んだ表現には目がいき耳がむく。
なぜそんなことを思うのだろうと考えてみた。とにかく自我を保つために必死なのだろう。その理由はどこか情けなくもあり滑稽である。思ってしまうことを消すのは不自然であるから、これまたどうしようもない。
精神から生まれる作品に惹かれる、言葉や思考に興味があるのも、「人間である」ことを意識しているからなのか。少し己を知れたような週末。精神と詩に盃を。