日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

お部屋にターンテーブルが到着!!!

音楽の話


何かを創るのには、2段階が必要と思います。
まず、とっかかりのアイデアである程度、形を作る、そこで完成!!!・・
ではなく、寝かして、もう一度、細かいところを見直す。
この細かいところを見直す作業を怠ると、クオリティが天と地の差。

飲食店で、「なんだか心地がいい店だなあ」というのは、相当細かい配慮が行き届いている。そういうのと要は一緒で、細かい配慮が大切かと。

  

上記の言葉たちは、もろ、ブーメランです。自分に突き刺さる。戒め、戒め。
ということで、作りかけのビートが大量にあるので、ひとつずつ完成させていこうかと思う次第です。


アルバムも声の録音を終え、ミックスダウン中。

ハイ(ストリングス系とか・ピアノとか)、ミドル(声)、ロウ(ドラム・ベース)、三つに分けるとして、それぞれの主力(?)的な音を前に出すと、ぶつからずにいい感じと思われる。空間のどの位置に音があるかにより、聴き心地が変わる。迫力・立体感は録音のテーマかと。

創り終えたら、しゃかりき宣伝も頑張ろう。(飲み歩きながら♪)

 

と、丸出しの私情は、置いといて・・ほんで、ででん!!!

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ターンテーブルが届きました。そして、音楽室に置いてそうな、スピーカーもゲット。
配線をしていると、当たり前ですが、基本は電気やねんなあと思います。電気がより身近に感じられます。レコードも大量輸入したので、アナログで回せるように、張り切って、練習していこう。 

 

ということで、今日は曲紹介をしようかと。

エレクトロ・ポップ・バンドのFindo Gaskさんの「Va Va Va」

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いいポップさ、そして、何より歌い方なのか、中毒性がある。

言葉で表現するのは、すごく難しく、「簡単なようで難しいようで、簡単な感じがする難しさ、みたいな感覚」、矛盾に成り立つ音楽、というか。

いやはや・・なぜ、追い求めるのか。「夢中」というのもひとつの「逃避」だからか、好きというのは、上手に付き合えば救いになると考えています、

 

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「鳴らした場合」さんの「ふつえぬ」を聴いて。

【射影】

舞い降りる、凪、吹かす者、辛辣な序列に風穴を
芽は息吹く、抑揚、影は立派に写る

 

EARでいいCDをゲット

 

上記、《射影》はその音を聞いて浮かんできたもの、即興的につづってみた。 
表現者はみな、浮遊している「像」を映すのだから、音でも言葉でも。 

「節」ではなく「単音」、それなのに、連なっている。
さながらパッチワークのように断片的な思考が繋がっている感覚。
直観であるはずなのに、秩序という箱にきっちりと収まっている。
創造者の息遣い、また、それとともに現る突発的な記憶。
混沌の中を浮遊する像が、瞬く間に聴覚を魅了する。 

 


昨日、EARに行きました。毎月やっているボンスターさんのイベント。
毎月、行くのが楽しみなイベントです。

(レコードが縦に3枚!!前衛的!!)

 

笹谷創さん(@sasastagram)がシェアした投稿 -

 


そこで、CDを買いました。「鳴らした場合」さんの「ふつえぬ」、
いきなり俗っぽいですが、これはいいお買いものをさせていただきました。笑
かっこよいっ!!!!(イメージが湧いてくる、湧いてくる)

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表現に興味がある方なら、何か感じるものがあると思います。

 

聴いていると潜在能力が引き出されている気がします。一音の味わい深さよ。ジャケットのいなたさよ。素敵。そして、アルバムのタイトル「ふつえぬ」、同じ疑問を抱いてらっしゃる方がいた。

どういう意味なんだろう。気になる。。

 

 

いやあ、さすが、ボンスターさんのイベント。
もはや、ターンテーブルは楽器なのではないかと。使用範囲の拡張。
色々と恐ろしい方が世にはたくさん。身震い、身震い。アルバムの続きを制作しよう。よりいいものへと。

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考えていることさえ、「何のために」

考えていることさえ、「何のために」

 

すべては幻想であり、忍ぶ仮の姿として、とりあえず置いてみる。

オカルト的なことではなく、シンプルに概念として。 
価値観はそれぞれの色付けであり、善も悪もなく、事象がある。事象さえも、目で見えているからあるといった状態で、ないのかもしれない。

「矛盾が少なく、辻褄が合うので、説明がうまくいく」をひとつ、法則と呼ぶ。同様の原因により、ほぼ同様の結果となる。
その法則を数多く知っていると、応用ができる。精神的な、といったところの生きにくさにも、その法則自体の成り立ち方、骨組みを捉えていれば、少しは役立つのではないか、その法則はいわゆる経験を積んでいると、無意識的にしろ、活用されている。

こう言われると、自分は「こう思う」や「こういうパターンを取る」、自然にうまくいっていたら、何の問題もないが、いつもうまくいかないのは、パターンを外しているからだと。

引き寄せの法則みたいな話。あれは、あながちその通りと思っていたり。

そんなパターンや法則、コツと過ごしていると、考えていることさえ、「何のために」というのが、頭をよぎる。上記は、虚無から生まれる感情ではなく、真っさらな疑問として。人間をいち生物として捉えると、「何のために」と考えること自体がナンセンスなのか。その先に。

と、戯言を抜かしつつ、最後は直観的に判断していたり。

流転、すべては運動であり、運動は矛盾を孕む。相対的な独立、普遍性といえど特殊性を含む。範囲としての常識、言語は常に落とし込んでいると言う意味で、客観。それを知ってどうする・・と思うのも、何かと勉強不足な気がする、知識や知恵もだし、たくさんの人に会って、その中で、感じることも大きいはずだなあと。

うまく言えないけど、全てがフラットな状態だ、そう抜かせるのも、ストレスのたまる環境にいないからなのか。何か、違う何かがやってくる時期なのか、転換。不明瞭。

毎日耕していけば、きっと何かある。と、直観が申している。

そもそも道は後ろにできているもの。

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