考えていることさえ、「何のために」
考えていることさえ、「何のために」
すべては幻想であり、忍ぶ仮の姿として、とりあえず置いてみる。
オカルト的なことではなく、シンプルに概念として。
価値観はそれぞれの色付けであり、善も悪もなく、事象がある。事象さえも、目で見えているからあるといった状態で、ないのかもしれない。
「矛盾が少なく、辻褄が合うので、説明がうまくいく」をひとつ、法則と呼ぶ。同様の原因により、ほぼ同様の結果となる。
その法則を数多く知っていると、応用ができる。精神的な、といったところの生きにくさにも、その法則自体の成り立ち方、骨組みを捉えていれば、少しは役立つのではないか、その法則はいわゆる経験を積んでいると、無意識的にしろ、活用されている。
こう言われると、自分は「こう思う」や「こういうパターンを取る」、自然にうまくいっていたら、何の問題もないが、いつもうまくいかないのは、パターンを外しているからだと。
引き寄せの法則みたいな話。あれは、あながちその通りと思っていたり。
そんなパターンや法則、コツと過ごしていると、考えていることさえ、「何のために」というのが、頭をよぎる。上記は、虚無から生まれる感情ではなく、真っさらな疑問として。人間をいち生物として捉えると、「何のために」と考えること自体がナンセンスなのか。その先に。
と、戯言を抜かしつつ、最後は直観的に判断していたり。
流転、すべては運動であり、運動は矛盾を孕む。相対的な独立、普遍性といえど特殊性を含む。範囲としての常識、言語は常に落とし込んでいると言う意味で、客観。それを知ってどうする・・と思うのも、何かと勉強不足な気がする、知識や知恵もだし、たくさんの人に会って、その中で、感じることも大きいはずだなあと。
うまく言えないけど、全てがフラットな状態だ、そう抜かせるのも、ストレスのたまる環境にいないからなのか。何か、違う何かがやってくる時期なのか、転換。不明瞭。
毎日耕していけば、きっと何かある。と、直観が申している。
そもそも道は後ろにできているもの。