川越まつりにいってきたよ。たのしかったよ。
川越まつり 祭囃子の笛太鼓
川越まつりに行ってまいりました。
何やら、1648年に川越藩主の松平信綱が神社に神輿と獅子の頭と太鼓を寄進したことが始まりらしいです。信綱といえば、徳川の家光と家綱の老中やったような気がします。
江戸時代から城下町で栄えた川越には蔵造りの建物がガンガン残っていました。この時、脳内に「がんばれゴエモン」の町の人を叩いたら怒ってくるシーンがスッと浮かんできます。そんな意識を持ったこともありませんでしたが、思い起こせばあのゲーム江戸が満載です。
その日は祭りなのでゆっくり観光とはいきませんでしたが、屋台を横に通っていく道路はかなり幅が広く、そこまで「人・人・人」状態ではありませんでした。
とはいうものの、最初、人の多さにゲッソリし屋台のある祭りのメインストリートに突っ込むことを恐れます。「自分の意志で祭りにきたくせに」と心を振るい立たせます・・。すると、見事、振るい立ちました!!
ありったけのガッツを出して歩いていると、あちらこちらから祭囃子が聞こえてきます。「笛太鼓や!」そう声を荒げながら、演奏している方を見てみると仮面を被った何奴かが舞い踊っていました。
ええ、妙な迫力がありました。
そこら中に溢れるきつねの人たち
歩いていると、きつねの仮面をかぶっている人がたくさんいました。
「経済」という言葉すら知らないあどけない少女や、ファッションを気にしたことがないであろうぶかぶかの服に身を包んだおじさま(もちろんキャップをかぶっています)、「オホホホホ」と笑っても身の丈に合う奥様などがきつねの仮面を被っています。
特におじさまときつねの仮面のコラボに、言葉には表せない何かを感じました。生活感丸出しのおじさまと、屋台で売っているといえど神聖な匂いのする仮面の融合に見惚れていました。普通のおじさまに見惚れたのは初めての体験です。
仮面を被ると、顔が見えない・・。
箱男というのは、箱に穴を開けて頭から被る人です。この人と対峙したとき「相手はこちらを認識できているのに、こちらは相手を箱としてしか認識できない」という恐怖が湧くはずです。
逆をいえば「認識できているということが安心感に繋がっているのだ」ということが言えます。おじさんを見ながら、そんなことを考えていました。
認識されなくなるということは、社会に参加している状態ではなくなる・・。
もしかすると、神聖さというものは社会に参加しないことで滲み出てくるものなのか・・。
と、ぷちパンチラインを生み出したはいいものの「社会と隔たれたもの、ニートの方々は神聖か?」と聞かれると「神聖です!」とは答えられません(´Д` )。。
これは「働くことが義務」と定められた日本の憲法の・・
話のスケールが変に大きくなったきそうなので、神聖うんぬんかんぬんの話は中止です!!
そして、きつねの仮面を被っている人の写真がないという手落ちです!代わりに川越の町にいたイケてる小便小僧の写真を貼り付けておきます。
見事な放尿でみんなから大人気!!