日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

精神と詩に盃を

言葉

 

週末は言葉をあまりにも浴びすぎた。
詩の朗読のライブにも様々な型があると知った。これまで朗読を生で見たことがなかったから、とても新鮮な体験。スタイルは様々であるが、純粋に詩が好きで、音楽でいうところのDJ的なやり方もあるのかと。また、言葉の自由度を改めて感じた。同時にライブは嘘をつけない。向き合った時間が、明らかに空気感にでる。

 

逆にいえばどれだけ神妙な表情をしてみても、仕方のない。向き合った方が価値が高いとか言いたいのでは全くない。ただ、向き合った時間や心とアートは関連していて、私はそういう立場に。そこから生まれるものこそ純粋なるものなのか、資本や批評のない協調性とはまた別なもののように思う。

 

それらしくみせるからくりも、もちろん大切だけど唯一無二のその人の型。何かしらからインスパイアを受けたとしても、その人自身に落とし込んだ表現には目がいき耳がむく。

 

なぜそんなことを思うのだろうと考えてみた。とにかく自我を保つために必死なのだろう。その理由はどこか情けなくもあり滑稽である。思ってしまうことを消すのは不自然であるから、これまたどうしようもない。

 

精神から生まれる作品に惹かれる、言葉や思考に興味があるのも、「人間である」ことを意識しているからなのか。少し己を知れたような週末。精神と詩に盃を。

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「詩はどの時点で完成と呼ぶのか」というテーマを挙げました

取り急ぎ

 

トークイベント、来て頂いた方、見ていただいた方、ありがとうございます。初めてトークイベントを主催しましたが、皆様のおかげもあり、なんとかかんとか、成り立ったかと思います。

 

MCの立場だったので、ちょいと見返さないと色々と追いついていなく、ひっそりと皆様の意見を見返してみます。いやはや、脳の作りが関係しているのか、人間の特質とは何であるのか、性格というのは何によって形成されるのか、またその形成された性格は何をどう嗜好するのか。好きに嫌い、共通する認識や意味。トークイベント後も謎は深まるばかり。

 

ひとつ、「詩はどの時点で完成と呼ぶのか」というテーマを挙げました。それはもはや論じることではなく、「その人が完成って言ったら完成!」の一言で済む話。そこからあえて言葉を絞り出すと、不毛なものにも意味を与えられるのではないかと、そんな着想から。

 

また、後日ゆっくり振りかえろうと思います。

 

今日は主催者。そして、明日はライブ。
切り替えつつ、今日は良い一日に。
明日も良い一日に。

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誰がために伝うかは、未だに雲の中。

 

手の甲に浮かぶ血管を眺めていた。ぽこりと紫色した太い線が日毎に変わることもなく、いつもそこにある。私の感情や分析などとは、全く断絶された世界。この目で見ているはずが、常に別次元に存在している。最近は、「乖離」と「同化」にやたらと思考が進む。

  

ゆえにその筋を奇異に感じ忘れ難き興奮となる。一端のある大人は、マニアックな嗜好性の強い店に通うようになる。それは何も不気味なことでもなく、必然的ですらある。数年前には、あれだけ不可能と認知していた感覚も当たり前のように含んで考えている。乗り越えてきた数か質か、またはそのどちらか、両方か。

 

知覚は分裂と統合を幾度となく繰り返し、「若い頃と変わってしまった」やら、勢いがなくなったなど、瞬時の諸刃の剣ではない。世間と馴染めぬと理解し研ぎ澄ましてきた。その個が作品となり誰かの手助けとなれば。誰かへの憧憬は背中を押しても、決して届かない。諦めが肝心、齢を重ねて思うこと、正しくは諦めも肝心と強く思う。

ライブとは何かを伝うこと、その機会、耳の痛いお節介も、ライブという名を借りれば。
誰がために伝うかは、未だに雲の中。されど、届けにいく。

最近、暖かい。春が来たのだ。

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