日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

「数学の世界」良書に出会いました。その時、

「数学の世界」良書に出会いました。その時、

 

物の形のみを考えて取り出す。

そして、単位を使い導き出した結果を要素に解体する。そして、組み直す。

いわゆる発想。成り立ちの細分化、その成り立ちに共通的なものを取り出したのが、円形や球体。(点や線も同じように)

 

机に扉にコップ。形がある。直線の部分がある限り、全てに置いて長さを測定できる。

この共通事項を編み出したのが数学と、この本に書いて有った。 それが数学と、さも当たり前のように知っているけど。抽象レベルまでに抽出したすごさよ。 

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これまでの数学の本、読んでみては、「積分?関数?」ちんぷんかんぷん状態でした。
この本は数学の概要をいい具合に説明してくれてて、良書です。
全体的な成り立ちのお話というか。聞かせてくれます。魅力満載。

 

○○の定理みたいなやつは、論理的思考において、組み立てられたひとつのフレームワーク・・、もはや、それは作品ではないのか!と思わせられます。

思考を絶えず続け、綺麗にすっぽりと論理の筋が通る、やっぱり作品のごとしです。

 

また、改めて、数学なるものも文章なるものも似ていて、共通していると。
考える上で演繹法的なものを駆使する。定義の厳密さに違いがあるぐらいなのかもしれない。言葉の定義はどこか曖昧だから、その人の持つ感覚の世界により、判断が変わる。

文章の曖昧な表現性、算術の普遍的な形式。美しさの観点は、様々なところに隠れているものね。聴覚、視覚、感覚。どの「覚」を揺さぶり、どう繋がりお目覚めするか。

後半に差し掛かると、すこぶるわかんなくなってきました。

しかし、この人がきちんと学んできて、適切な言葉を適切に書いてくれている、読書のことを考えつつ、というのが直感的に伝わる。幾何、代数、関数、解析、方程式、キーワードとなる言葉をきちんと捉えないとと思いつつ。

 

あと、印象に残っているのは「法則はすでに理論を内包しているから、荒くつかいなさんな」的なことが書かれていたように思う。つまり、前提の定義の確認!

前提というのは、仕事をするにおいても度々大事に。

前提が違ってくると、まるで、結論が変わってくる。

前提を無視すると・・あらら、水掛け論が永遠に鳴り響く。

 

 

鬱蒼とした森

鬱蒼とした森


都会では見知らぬ命があり、夜には梟が飛び自由を謳歌する。

梟は霞がかったその先を越えようと、力強く羽ばたく。

挨拶をするように枝から顔を覗かせる葉も、吹き荒ぶ風の前になすすべもなく揺れる。それは何かを表しているわけでもないのに、森を形作る主人公かのごとく生きいきとしている。

 

その森にしばらく迷えたことは幸運や奇跡に値するのかもしれない。

 

「夕暮れに種類があることを知らなかった」
その言葉は、しんとした中にこだまする。

 

日常を繰り返してきたものにとって、慣れた生活からの離別は少しばかり心苦しい。
事実はどのように見え、いつ消えるのか、そのタイミングがわからないのだから。

 

目が覚めれば、森の中。あまりにも唐突な出来事に最初は目を丸くした。
慣れてしまえば、驚きや恐怖は「モノを見る目」に変わっていた。
生きるための金勘定や呼吸を忘れ、「慈しむということ」に没頭した。


動的な生命体だけではなく、この地自体を踏んでいる実感が湧いてくる。普段における繋がりとは違った、底から溢れる、共鳴を感じた。踏んでいるという実感そのものが、うまく心と呼応した。 

 

その地は一面、虫に喰われた葉で覆われ、動くとカサカサと音が立体的に聞こえる。
少し歩けば、大量の木は見えなくなり遠くに街が見えてくる。見晴らしはとてもよく、清々しい気持ちになった。

 

後方からは木の匂いが仄かに香る。あらゆる楕円形の妄想が踊る。

数時間の滞在だったが、体温の変化が少ない恒温動物にとって、過ごしやすい場所だった。

 

日はやがて沈み、元の森に戻ったようだ。

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芸術とは自分の思いを叫ぶのではなく、世界を提示すること

世界の提示

 

必要はなくとも、懐疑の会議がわたしの脳内でヒラカレル。


「魂を込めた曲を聞かせてやるぜ!!!」
「魂を込めるとは・・本気とは・・そもそもなんなのか!」


考えたいわけでも、考えたくないわけでもなく、疑問は勝手に浮かび上がる。
そのせいかお陰か、対象や行為に対して全然集中できていないことが多々ある。(無意識にシャンプーしてることとか、そ、それは)

  

そんなある日、「芸術とは自分の思いを叫ぶのではなく、世界を提示すること」という一文を目にした。


見る方の解釈の自由性をうたっていた。納得の嵐。
ほっ、それはあの黙示録かのごとく・・。

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老人A
「静かな空がどよめいとる、雷様の降臨じゃ!」

その一文は老人Aほどの衝撃、戦慄、鳥肌を与えた。十数年ぶりの旧友との邂逅ばりに。

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そもそも、世界観自体は想いというか、感性といいますか、そういうところから生まれるものではあると思いますが、それをひとつの世界にまで持っていけるかも非常に重要と考えたり。その人自体がひとつの世界感を持っていれば、もうそれは自然とそうなるものとも考えたり。

 

そんなことを考えるきっかけが、昨日の新宿にありました。
初めてお会いした時から、「ひとつの世界だなあ」と思う方のライブをご拝見させていただきました。


まぎれもなく素敵だった。

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そして、世界を提示することについて、考えさせてくれるライブでした。

「創作に対するちょっとした隙は、すぐバレるのかもね」と自らを戒め、戒めできました。真価とは。