音楽は耳で聴くものではないのかもしれない。
音楽は耳で聴くものではない
音楽は耳で聴くものではないぞと。身体の性質上、耳から音が入る、脳が認識するもの(たぶんです)。「聴く」と言われてしまえば、必然的に耳からというイメージを持つ。果たしてそうなのか!
昨日は幡ヶ谷forestlimitにお邪魔しました。芸術性が高くて、場所の雰囲気もアトリエといった感じで、星空の下のキャンプに行ったような感覚になれます。毎回、思うけど音が立体的に聞こえる。スピーカーに対して、立ち位置を変えてみると、違ったように聞こえたりするのが面白い。はたまた3Dという感覚。音が立体的に聞こえるというのは、創る上でもひとつの指標でございやす。それぞれの音の位置を意識すると、そうではないものと比べ、心地よさが全然違うように思う。
あの場所は空間の雰囲気も含めて、日常生活の世界とは「間」が違います。音楽の「間」というものをすこぶる感じました。この音楽の「間」なるものを身体に染み込ませる、さすれば、ライブに味が出てくるのではないかと。
音楽は感情をゆさぶるものだけど、それ自体が実態のない、雲をつかむような、感覚的なものであるのなら、身体と音が一体化すれば、何か目を見張るライブができるのではないかと安易な考察。
音と一体化する、それはもはや「宇宙を感じる」と同じく「抽象度高っ!」みたいな言い方です。一体化とはなんやねんといわれれば、しっかりと口ごもりますが、そういった抽象や概念を意識するのは、創ることや演じることに従事している人にとって、大切なもののように思います。
あれもこれも、この場所に来て感じたことです。外に出れば、何かしら発見できる人生は、そのようにできているようです。
今日の一曲
いやはや美しい。歌声がすっと入る、浄化されまくり><
全然わからないなりに現代音楽を聞いてみよう
現代音楽を聞いてみよう
現代音楽に興味を持ちました。現代音楽は突発的、予想のできない音がなる、不協和音がなるといったことから、人に馴染みにくいそうです。調和された音楽が連続性だとしたら、現代音楽はランダム要素が強い。バランスのきっかけを何にしているのか、感性の赴くまま、いってしまえば思いつきでいっている気もします。
現代音楽的なものは、音そのものはもちろんだけど、そこまで培った音に対する感覚が大切なように思います。ある種、一流のリスナーであることがひとつの要件となり得そう。
音楽という枠から音の単位で捉えている感覚。どんな音でも発想次第で組み込めます。
仕組みから、ゼロから構築する感覚がより強くなっているものに思います。
ジャンルによるかもだけど、調和のとれた音楽は基本形が存在し、そこになぞらえれば、とりあえずは成り立つのではないか。張り切って、わかったようなことを書いていますが、きちんとパターンを覚えましょうと自戒です。
さらに、現代音楽の定義もわからず、ほぼ聞いたことがないということで、聞いていきましょう。ネットを上なめずりしたところによると、ミニマルミュージックというのも、現代音楽に分類されているそうです。
ミニマルミュージックというのは、音の動きを最小限に抑えて、パターン化された音を反復させる音楽だそうです。
執拗なまでの繰り返しということは、鏡に向かってずっと話かけて、むずむずした気持ちになるのと、同じ感覚になるのでしょうか。つゆしらずです。
Youtubeをうろうろとしていると、くそかっこいいのがあった。
普通に綺麗。
もともと、クラシック畑でもなんでもないから、基礎などございませんが、
好きなものを追いかけていればいずれなんとかなるさと。いつまでたってもやめられそうもおまへん。音楽。
定義も知らぬままツッパしてみましょう。
人間らしさとは。 心の奥は混沌としているもの
混沌の魅力
人は仮面をかぶっていないと思い込んでいても被っている。理性という仮面をつけて、社会や規則に馴染む。そうしないと知恵は生まれず、技術などは発達しなかったはずなのではないか。
理性、それは当たり前のように毎日働いてくれる。逆に本能は無意識下におかれる。その状態が続くと奥底に眠る本能はそのままになるのかもしれない。
制御が未来を創ることもあるのだから、その状態が続くことは何も悪いことではないと。
そんな話を、そんなことをふと考えるきっかけがあった。
ちょっとした会話。それはどの言葉よりも生々しく、心に居座る。染み付いた性質に一番リアリティを感じた。転じて、表面的な善を盲目に追いかけても、人の力になるような器にはならないと思う。吸いも甘いも、違う生き方を現実として、まざまざとみて、生きている話を聞いて、自分が知らなかったものを知ってこそ、大きくなれると。
アイデンティティが揺れやすい青年期は理性や仮面をやたらと嫌うものだ。しかしながら、あれだけ嫌だった仮面の使い方を無意識に熟知してくる。
気がつけば仮面をつけていることさえも気づかないまま、生活をしている。
本質は整備された美しいものではなく、幾らか寂寞を伴っている。一見、綺麗に見えても中身は混沌としている。ただ、それの方が現実的で人間らしくあり、魅力を感じる。
また、別の会話。
少し枯れた声で女は言う。
「何歳まで生きるかわかんない」
胸部に響いた声で男は言う。
「結構、長生きする人おるっすよ」
「うちの親父は早く死んだけど、弟も兄も生きているよ」
「何歳で亡くなったの」
目の前で繰り広げられるその会話は、とても前向きで人間らしかったように思う。