日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

初めてのゴールデン街

初めてのゴールデン街

 

光るネオン、活気溢れる客引き、綻んだ顔で交差点を渡る人々、一同に会したつもりはなくとも巨大な群を織りなしている。一昨日は、新宿の群を構成するひとつとなった。東の京の人混みにもすっかり慣れっこになり、人の波をひょひょいとかき分け移動。自分の知らないところで、この街ではアクシデントが起こっているのだろうかとふと思ったり。

 

音楽が流れるところにはしょっちゅう顔を出しているが、飲みに行くとは久々。冗談を織り交ぜつつ軽やかに会話は進む。一期一会で知り合い、今は別の環境に身を置いている。それぞれの心境や状況を聞く。私は至極マイペースに話を聞きつつ、大根を味噌に漬けてボリボリと食べていた。その人が選択し邁進していると知ったのなら、何を言うことがあろうか。電車の最終時刻が近づき、それぞれの場所に戻った。違う環境同士の共有の瞬間は面白いと思う。

 

解散した後、新宿にいるので前から行ってみたかった「ゴールデン街」に繰り出した。

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母国語は飛び交わず、外国人が多かった。どこに突入しようかと歩いていた。少し電力を消費したであろう蛍光灯に照らされるのは、「JAZZ」という文字。入り口を目指し細い階段を登ろうとすると、向こうから優しそうな男性がきた。男性は印象的な笑顔で「主人の機嫌は悪いけど、いい音楽が流れているよ」と言った。常連さんかどうかは知らぬ存ぜぬが、ゴールデン街に惹かれた人なのだろう。

 

味のある木の扉を開けると、横に長く席が7つぐらいの店だった。壁一面に置かれたCD。2000枚ぐらいはある。主人はちょうどコンポからCDを取り出していた。机の上を一瞥すると「芋」「米」「麦」などと書かれた焼酎の種類一覧が置かれていた。焼酎の特性など、頭の片隅にもない私は「芋」を頼んだ。


「このCDは全部、JAZZなんですか?」
「ノンジャンルや。そう、JAZZの中でノンジャンル」と主人は答えた。

 

言葉の言い回しとは反対の愛情深さを主人から感じた。


「何十年掛けて集めたんですか?」
「勝手に集まってきた。意識的に集めているようじゃあ好きとは言われへん」
その1分後にこう言っていた。
「物あるの嫌いや。家の中は何にもない」


1時間もいなかったがとても魅力を感じた。

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ドラムを触ってみた日

ドラムを触ってみた

 

今日、外、すごい寒いです。

3月も半ばに差し掛かろうとしているのでポカポカといきたい。

 

いよいよ、我が親知らずを抜くこととなりました。彼が顔を出してくれるようになってから5年ぐらいが経過するのでしょうか。腫れては引いてを繰り返してきました。東京より長い付き合いです。最近、周囲の人に親知らず情報を集めているのですが、「3日間動かれへんかった」「麻酔と相性が悪かった」「普通に痛い」とおったまげる情報が続々と寄せられます。抜いたあともしばらく、痛いと思うとゾッとします。親知らず・・。

 

昨日も浅草に行きました。最近、浅草、出没率、高めです。Sound Bar Pure'sに行くとセッションの日だったようで、すでにヘトヘトの南風さんが迎えてくれました。ドラムが解放されていて少し叩かせていただきました。全くと言って叩いたことがありませんでしたが、ギターの指のようにドラムを叩くなら、足を使いこなさないといけないようです。DTMでドラム入れる時、ドラムを少しでも叩いているとなんだかイメージが湧きやすいという気持ちが湧いてきました。そのあと、少し歌わせていただいたり、平日から浅草の街を堪能しましたと。

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浅草に足しげく行っていると、街のリズムが見えてくるような気がします。Sound Bar Pure'sはジャンル隔てなく、いつも興味深い音楽しか流れていない。素敵、ということで今日の一曲は超素敵な歌を。

 

ケン田村/わすれておしまい

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心の奥と向き合う

心の奥と向き合う

 

不幸と幸福の割合なら幸福の方がやたらと大きい。それゆえ「伝えたいこと」とは存在するものなのか。明確でまっすぐな言説は胸を抉るという事実を知れど、湧き上がってこない限り演者ではないのかもしれない。自ら書いといてあれだけど、「演者ではない」という言い方はあまり適切ではない。

  

演者は様々な形があり「伝えたいこと」がある人を演者というだけではないのだと。もちろん、悪いより良い方が良い。行き過ぎた推測は邪推となることも経験済みであるが、「伝えたいこと」の有無をひたすら自分に問う。
そもそも昇華の仕方も人それぞれであり、だからこそ興味深い側面もある。より強く前に打ち出すタイプ、調和に溶かすタイプ。

 

Aが提示されれば常に別を考える自分に確信めいたAはない。考えるから離れられる瞬間、本能的なレベルでの安心感。それを好きといおう。そこは一切変わらない。だからこそ、その道を志したいわけで。理由を明確にする必要も特にないけど、やっぱり好きだと。包み隠すしたたかさも泥臭くなる弱さも全ての起伏を凌駕。

 

そして、生活として共にするものは尊重しすぎてもおかしくなる。やたらと高尚ぶるのもあまり見上げたものではない。ただ、尊重せずに舐めてかかるのは粗悪。ずっと携わっていると当たり前は当たり前となるけれど、当たり前ではない。言葉、文字、音楽。人々が明日を生きていくためのツールとして。状況が違う環境で全てそこに焦点を合わすのはやや難しい。

 

今、録音をしているけど、これが終わればどんな音楽をしていくのか。このことが最近、ひたすら頭をよぎる。自らの根源を探る作業のよう。楽しいや苦しいの上がり下がりも客観的に押し込める。だからこそ、どんな音楽を奏でるのか。音楽に正直に。華々しい成果の前に、根源的な、根っこ。人は自分を見ているようで全く見ていない、人は自分を見ていないようでしっかり見ている。この対立、尊厳でもなく、軽視でもなく。あくまで自然体にいい関係を。独り言の羅列が作品になり得る時まで。

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今日の一曲、 Camille/Seeds

スタンダードなフレンチポップに内省が入り込んだ感じがたまりませぬ。

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