日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

とある生活者。変貌するもの、しないもの。

何により変化を遂げる

 

朝起きては野菜を育てている畑の様子を見にいく。かんかん照りの太陽を見ると、作物がすくすくと育つ様子が思い浮かぶ。大物が取れた暁には宴会を開こう。せっかくなのだし、近所にも分けてやらねばと・・。この部屋に時計はない。目が覚めた瞬間が朝だ。

 

また、この部屋にテレビはない。ただしi phoneを持っているので情報が取れないわけではない。電波もバリバリと繋がる。時代の波を見過ごせど気付かないようにはしない。

 

片田舎のこの街の住人が集まり、定期的に催しものが行われる。「生活をする」という観点でいえば同じ穴のムジナだ。辛いことがないといえば、それぞれが嘘になる。それでも明るく茶化しあって夜を明かす。世に明日に希望を見出している。貴方のおかげ。

 

改まった気持ちでいると、オーブントースターに入れていたパンが焼きあがったようだ。クロワッサンを軽く焼いたので噛み応えが増した。家の一部屋は音楽スタジオだ。時たま街の人を呼び、演奏会を行う。好きな時に好きな音色を鳴らす。ああでもない、こうでもないと制作に打ち込むと時間が経過し夕焼けが街を包む。一日は瞬く間に過ぎていく。

お勤めから帰ってくる家族のため、料理を作ろう。ご飯を炊こう。魚を焼こう。そう思っていると携帯電話が鳴る。帰りに何か買うものはあるかと問われる。特にないと答える。材料に役者は充分に揃っている。

 

陶酔に目を大きくした過去があっての今、健康。温かい日常に涙がこぼれそうだ。

妙に感傷的な気分を変えようとイヤホンを耳にセットし街をぶらつく。16ビートに刻まれたダンスミュージック、この街にそう速く踊る人はいないけれども。

 

目の前の空気を吸い込む。
死に様を重んじる時代に生き様を賞賛する環境。何により変化を遂げるのか。

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子どもはどうして心を射抜くのだろう。

子ども

子どもはどうして心を射抜くのだろう。
一般的に言われるのは経験がないゆえに純粋だと。子どもは人(親)の目を伺いがちな気はするけど、愛想笑いをするイメージがあまりない。よく動く。動き回る。意味のない言葉の羅列や行動をよく取る。かといって羞恥心や罪悪感はあるように思う。怒られることには、子どもも大人も少しはビクつく。ただ、子どもは目的を持つというプロセスが形成されていないのだろうか。

 

小学生の頃を思い返せば、壁にボールを投げつけワンバンで跳ね返って来たボールを取る行動をひたすら繰り返していた。マンホールの周りを自転車でぐるぐる回ったこともあった。これは、コケて何針か縫った気がする。「行動に意味を持たせない」、行うことのみ行う。純粋と言われる所以はそんなところなのだろうか。見ていないようで見てる、知らないようで知っている、類稀なる存在だ。自分だって子どもだったはずが、大きくなった。

 

子どもだと解けるのに大人は解けない問題とか見たことあるような。大人になるにつれ頭の回転が遅くなっているような気もする。メモリ領域が逼迫している状態なんだなと。ある意味、メモリ解放状態の子どもたちは引き出すスピードがすこぶる早いんだ。

なぜ、子どものお話をしたかというと、小学4年生くらいの子どもが「アリの歌」を歌っているのを聞いて、シミジミしたからです。究極の歌詞。

 

ありは今日も働いている ありはいつも働いている 

ありは何にも言わないが 汗水流し 明日も生きるために 

今日も歩く ありは今日も旅に出る 

えさを求め旅に出る カマキリに道ふさがれても

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気分 解釈 身のこなし 昨日の歌詞 理解されなきゃ奇行となり

今日は録音デイ

 

金曜日、土曜日と高揚感に包まれすぎたため、お風呂やさんに行った。

サウナと水風呂の連続にスッキリ。だらけすぎても、高まりすぎても、平然へと沈めない。なんと、それは忙しい。感情のままに行動するのではなく、感情と行動を切り離し。年を重ねるとパターンを覚え、それに沿っていけばいいという妥協的な時間の消費をしてしまうのか。それは、良いのか悪いのか。高揚と怠惰の天秤はいつどちらに傾くかさえも、記憶してしまう。開ける引き出しさえ間違えられなければ、生活できる。

 

形状記憶を探し当てて、日々の時間を過ごしているとも言える。知識も蓄えられるように、感覚も蓄えられるのではないか。ただ、言語化できないから同列に思えないだけだろうか。

  

今日は家に引きこもりっぱなし、一気に声を録った。

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全然、完璧にできない。録音しているとどういったものがそもそも理想だったのか分からなくなる。どれを味ととり、どれをミスととるか。何をどれくらいの基準として、OKとするか。しかし、まあ、一区切りだ。新しい曲を作りたい。3、4年前に作ったのだから、許可を信ずる。

 

千の数の善と悪も自然となく 未練となる悲劇に機嫌を買う

気分 解釈 身のこなし 昨日の歌詞 理解されなきゃ奇行となり

 

なんだか、昔、自分が書いた詩を眺めてみる。

なんか若い。単純なんだとは思いつつ、きっと、もう、「ない」というラインは超えられているはず。客観的に聞けなくなる。一日寝かす作戦にでよう。

ああ、積もってくるものを吐き出したい。明晰さとは違うところで、吐かれる言霊に揺れて喰らう。ぬぼっーとする。深呼吸しよ。はっけよいのこった、のこった。分かれて裂けるのか、別れて避けるのか。