日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

子どもはどうして心を射抜くのだろう。

子ども

子どもはどうして心を射抜くのだろう。
一般的に言われるのは経験がないゆえに純粋だと。子どもは人(親)の目を伺いがちな気はするけど、愛想笑いをするイメージがあまりない。よく動く。動き回る。意味のない言葉の羅列や行動をよく取る。かといって羞恥心や罪悪感はあるように思う。怒られることには、子どもも大人も少しはビクつく。ただ、子どもは目的を持つというプロセスが形成されていないのだろうか。

 

小学生の頃を思い返せば、壁にボールを投げつけワンバンで跳ね返って来たボールを取る行動をひたすら繰り返していた。マンホールの周りを自転車でぐるぐる回ったこともあった。これは、コケて何針か縫った気がする。「行動に意味を持たせない」、行うことのみ行う。純粋と言われる所以はそんなところなのだろうか。見ていないようで見てる、知らないようで知っている、類稀なる存在だ。自分だって子どもだったはずが、大きくなった。

 

子どもだと解けるのに大人は解けない問題とか見たことあるような。大人になるにつれ頭の回転が遅くなっているような気もする。メモリ領域が逼迫している状態なんだなと。ある意味、メモリ解放状態の子どもたちは引き出すスピードがすこぶる早いんだ。

なぜ、子どものお話をしたかというと、小学4年生くらいの子どもが「アリの歌」を歌っているのを聞いて、シミジミしたからです。究極の歌詞。

 

ありは今日も働いている ありはいつも働いている 

ありは何にも言わないが 汗水流し 明日も生きるために 

今日も歩く ありは今日も旅に出る 

えさを求め旅に出る カマキリに道ふさがれても

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