「今日めっちゃ暑いやん」 いい夏にしよう。
夏の到来
あっっっっっつ。
7月、突然の圧倒的な暑さ。一歩あるくごとに口の中、干ばつ。
猛暑がはんぱじゃない。ただ暑いと喉乾いたままに家帰った瞬間に飲むドリンクの一口目がやたらとうまい。小学生ぐらいの時から思っていた。いわゆる「キンキンに冷えてやがる」というわけでございます。
公園とかでワイサワイサと遊びたいな。
せっかく日本に住んでいるねんから、季節を感じられることしたいよね。せかせかしていると、いつの間にやら次の季節に進んでしまっている。花とかに詳しいと季節を感じやすいんかな。
夏の鍋とかもいいよね(´Д` )bキムチ鍋とかビアガーデンとか。季節を謳歌したい。季節を。とりあえず、古典とか読むと季節に対してもっと敏感になるのかな。近所に紫陽花が咲いていた時は、「梅雨」を感じたけども。
夏といえば「蚊」
そして、夏といえば、蚊。
眠たくなってきたのに、耳のそばでやつらが「ブ〜ンブ〜ン」と踊り始めると、電気を点けて格闘を始めなければならない。そんな蚊ですが、もしも、女性の胸のあたりに来た時には、こう言いましょう。
「素晴らしい乳房だ。蚊がいる。」
言ったら、だいたい引かれると思うので、まずは身内から言ってみましょう。
そうそう、我が芸術家集団「素晴らしい乳房だ。蚊がいる。」のイベントをするにあたり、フライヤーを作ってみたんだ。ででん・・!
初めて作ったにしては上出来だ!と思っています。(じがじさん!)やる前はションボリとした気持ちやったけど、いざやってみると作るの楽しいね。デザイン的なものに取り組んだことがなかったけど、自分の中の判断基準さえあればなんとかなる!(´Д` )と思う!
そして、「素晴らしい乳房だ。蚊がいる。」、略して「ちぶかが」のイベントに関しての宣伝は、また、機会を見つけては大々的に勝手におこないますので、何卒よろしくおねがいしますm(_ _)m
とやかく、夏の開幕。季節を愛でよう。
「地面を撮るブームが訪れていた話!!」 切り取るからこそ、わかること。
地面を撮るブーム
数年前、ほんの一瞬だけ携帯で地面撮るブームが自分の中で起こった。
なぜ、地面を撮るのか。歩行者が歩く道路は舗装されており、幾何学的な模様になっている。なんか、それを撮っていた。別に地面でなくとも問題はないけど(´Д` )
ちなみにそのブームは一週間で去っていった。「なぜ、地面を撮っていたのか」と今更、頭によぎってきた。もちろん、特別な理由などはございません。
そして、先ほど幾何学的とは言いましたが、幾何学的でない場合も十分にあります。普段歩く地面に視点を向けてみると、いろいろな模様がありますなあ。という無知蒙昧な感想を抱くわけです。
マンホールとかも撮っていたなあと。ということで、地面を紹介していきます。
地面を紹介されてどういう感じで見ればいいのかは、全然わかりません。笑
模様の羅列ということでお許しを(´Д` )つ
見返してみたら、めっちゃずれている!!
何が幾何学的やねんと。。笑
気にせず私の地面フォルダがどんどんと火を吹いていきます!
これは、石のパンフレットとかでよく見かけるやつや。これ何という種類だったけ。。
乱雑な地面でも、写真やから四角の枠があるため、逆に調和している。三次元を二次元に変換してみると不思議な気持ち。ボコボコしていたものを平として捉える。
ここで、余談やけど、人間は嫌なことを思いつくけど、何を選択し吐き出すかのフィルターに本質があるというのをTwitterでみかけた。確かに、面白い視点。
そして、最後は木です。
ストロング感満載の木です。
四角の枠で切り取るから浮かび上がることもある。
人間の目は四角の枠ではなく、視野でとらえている。それを形として抽出してくれる。写真やカメラの興味深い点の一つでございます。
切り取るからこそ、わかること。切り取らないからこそ、知っていること。
地面に焦点を当て見つける。
ヴァージニア・ウルフさんの小説「燈台へ」を読んで
燈台へを読んで
ヴァージニア・ウルフの時代が到来しました。
全く知らない状態で、ヴァージニア・ウルフと聞くと強面プロレスラーを思い浮かべそうになりますが、とんでもございません。
心の扇動、いや、心の先導、いや、心の仙道、いや、、、ヴァージニア・ウルフです。
小説を読んで久方ぶりに胸がポッと熱くなった。物語を風景描写や行動から紡いでいくのではなく、あくまで人々の流れる意識を中心に描く。時間感覚失うような。それは小説にしなければ、「お父さん怖かった。お母さんは、気を使って場を回している。10年経った・・」ぐらいの話です。なんでもないような日常に焦点を当てて、瞬間の気持ちをわざわざそこまでえぐりこまなくてもと思う節があった。
正直、序盤はすごく読みにくかった。「みんな、意識の中から出てこうへんやん!あかんあかん!」と思っていた。読み進めているといつの間にか吸い込まれた。特にトーンが変わるわけではないけど、最後らへんはハッピーエンド感があったのがよかった。
意識にえぐりこんだ小説は、えぐりこんだまま終わるパターンをよく見かける。
一線を画していた。惚れ込んだ勢いのまま、ヴァージニア・ウルフさんのことを調べてみた。幼い頃から性的虐待を受けていたり、鬱を繰り返していたりと想像を絶する道を歩んできたようだ。その気持ちと同一にはなれないけど、そういったものがあの文章を作ったとも言えよう。
繊細な美しさの裏には破壊された人格。
自分自身も多少なりとも繊細な部分はあるけども、ここまでかと問われるとそうではない。後書きに連ねられていたヴァージニア・ウルフさんのコメントが心に残る。
生は意識を持ったその最初から終局に至るまで、われわれをとり巻いている半透明な暈、燦然と輝く光彩(ルミナス・ヘイロウ)、である。
この定まらぬ、未知の、捉えがたい精を書きあらわすことが、小説家の仕事ではないだろうか?
できるだけ、余分な皮相的なものを混えるのを避けることによって、たとえそれが、畸形に、複雑に表されるかもしれないにしても
なるほどなああと(´Д` )
曖昧で釈然とせず、次の瞬間には変わるボコッとしている、そんなものを書き表すのか。この辺りを掘っていこう(´Д`つ
ルミナス・ヘイロウに愛を込めて。