心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

あたまにうかぶ

あたまにうかぶ


無であるとは。例:本を読むとき違うことを考えてしまうので、音読するようにしている。内容の吟味とは頭で情景を思い浮かべることか。それとも、つまり、だから、と論理立てて結論付けていくことなのか。感覚の一致というか、何も考えていない状態とは、「何も考えていなかった」と後から認識しなければ生まれないのか。

  

その状態が直観的に塗り替えられている気がして。何も考えていなかったかどうかは常に不明瞭である。意識が統一されている感覚か欲しい。現在、実施している行為に対して、集中したいのだ。

「あれは、ああしたらいいのではないか」と頭に浮かぶのは良いことだけど、もっと目の前に夢中になりたい。こなす行為、そのものを有意義に。

 

日々、繰り返しで淡々となりがちだが、行為に対する純粋さはやがて広い範囲に良い影響を及ぼすはず。それぞれがそうすれば相互的な助けになるかと。


無意識の行動時の感覚と意識の深いところに及ぶ観察、その二点が出会う場所に良い集中があるのでは。繰り返しになりますが、そうした方がけっきょく助け合いも起こるのではないか、そんな構造で世も成り立てば・・と、理想論か。

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