心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

私は情報ではなく矛のきっさきを感覚に向けて、言葉に落とし込む。

 

生きるための金を得ようと、日々や時間に追われ、思索のない時間を過ごす。突如、想像を膨らませても、そこでは美しき描写は浮かばない。

 

悲しみは心に残りやすいせいか、思い出しやすいもの。人間とはよくできている。心象も安定していると、感情の引き出しを見失い、想像力に欠ける。悲しみをそのまま表出させるだけでは芸がない。同じ力でどういう感情へと変化させてやるのか。そこでひとつ、技術が顔を出す。

 

技術は心を表現するための変換器。磨いてやらないと。伝える努力を惜しまないとは、技術の研磨に抜かりがないことなのかもしれない。言葉にしてしまうと、さらっと書き出せても、その裏には泥臭さがせめてあれば。それは、もはや長い目でみた執着なのかもしれない。志といえば聞こえはよいが、とどのつまり、様々な角度を見た上でのしつこさ、みたいなものかと。

 

もっと世界に散らばる具体的な情報を駆使し、文章を構成すれば、情報としての価値も見出され、人を惹きつけるものになる。例えば、サンゴ礁の性質やコンピュータの仮想化について。大まかに前者は身を守るためのものが多く、また、後者は資源を効率よく使い、無駄を省くため。


理由というのは、人間に合点がいったと思わせられる、つまり、思考に決着をつける、ひねくれてみれば理由は事実であり錯覚でもある。私は情報ではなく矛のきっさきを感覚に向けて、言葉に落とし込む。


とある、商売人は言う。「根負けや、そのしつこさには、頭が上がりませんわ」

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