独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

「欲望は独りよがり」 その揺籃の中で生きた

何の中で

 

曇っていると気分も一緒に曇りがちに、同時に晴れを待つ気持ちも湧いてくる。耐える、じっと機会を待つ瞬間には焦燥感がお迎えにやって来る。やあやあ。
しかし、晴れた時にはこの調子だと思い込み、万能感で溢れる。

 

そのふたつを繰り返しながら陽は昇り沈む。今日は少し遅延した電車に乗り込んだ。鉄製の車輪は廻りだし、私を働く場所へと運ぶ。

 

舗装されていない道路、周囲には緑がたくさん、どんな作物のため、ネギやピーマン、まだ知らない片田舎、色味を取り戻せるような生温い風、爽快に自転車を漕ぐ私。いつかの休日を引っ張りだしてみる。現実はそうといかずとも、理想郷を想像し羽を休める。電車は目的の駅へと到着し、いつもの道筋で働く場所へと向かう。

 

働く場には乱雑に扱われ、使うことがなくなった資料が眠っている。紙は木からできているというが、その事実を忘れる。そして、忘れることに違和感を覚えなくなる。そう思えなくなる、それはひとつの脅迫にさえなり得るのに。

 

いつもそこにいるけど、いつか無くなるのだ。儚くとも寂しくない。目で見たこと、頭で考えたこと、空間を介した体験が人に手を差し伸べられる暖かな土壌を作ると聞いて、一矢報いたいわけでもなく。疲れを人様にぶつける気詰まりと罪悪感、それとは反対に許容してくれという欲望、いや、欲望は独りよがり。そこに真の達成感や喜びはないはずと。そんな揺籃の中で、今日も生きた。

 

(写真はふらっと立ち寄った、前に住んでいた川口駅周辺)

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