独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

「美しい文章とは何であろう」 止まない考察

美しい文章とは

 

美しい文章とは何であろう。
美しい文章と感じるまで、読み人はどのようなプロセスを通るのか。感情や思考の移動、それについて考えてみた。美しい文章といわれる理由の代表格は、「風景」が頭に浮かぶということが一般的に言われる。これは自然が絡められると余計にそのように思う。抽象的な概念は目に見えないので、浮かべる像が存在しない。一方、具体性のある花の名前や鳥の名前、それらはその分類を見かけたことがあるため、想像しやすい。

 

これに加えて、読み人側の読み方も美しい文章かどうかに影響する。影響というか、読んだ人が決めるという意味においては、全てになる。頭で情景を想像し読みすすめているのか、それとも受動的に勝手に風景が浮かぶほどの文章なのか。

 

他にも、読み人は漢字やひらがなの配置やバランスを見ていると考えられる。これは直感的だけど、一文を俯瞰しひらがな、漢字、カタカナ、どういう組み合わせで書くのかを意識しているのと、していないのとでは雲泥の差があるように思う。

 

そして何より、その対象物自体が「どういったイメージであるか」を理解するのが美しい文章を書く上で、とてつもなく大きいと思う。「嫌なことを言われれば、嫌な気持ちになる」レベルで人々のイメージというのは、そこまで違いがないように思う。
大差がないというか、母体の数を増やしていけばいくほど、「イメージ」というのは、ある一点に近づくように思う。

 

「燈」「カキツバタ」「燕」「夕映え」「雪渓」

 

実際に「美しい」と感じた具体性のあるものを登場させる。

読み人は美しい文章とされている本を読んだ時に、「美しいとされているもの」と何度も出会う。それが多くなると人々の美しいものという共通性がより固まる。つまり、「美しいもの」という認識をみんなで作り上げている節があるように思う。言葉の持つイメージ、先入観。概念。

 

また、発想とは思いつきであるが、知識や仮説を組み合わせ、結果を高いレベルで予想することでもある。足す、引く、かける、割る、何かふたつの事柄があった時にそれらをどう扱うか。骨組み、組み方、思考の癖、頑丈でありながら柔らかくなければ、機能を失う。足場を固めること、なんだかんだで基本、基礎が必要と何度、思い直すことであろうか。

 

考えることは確かに技術を向上させる。
ただ、究極はその言葉を使用するまでのプロセスが大切だと思う。日々、何を大切にして生きているか、そこに違いが生まれ作品に感性が吹き込まれる。

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