独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

心の奥と向き合う

心の奥と向き合う

 

不幸と幸福の割合なら幸福の方がやたらと大きい。それゆえ「伝えたいこと」とは存在するものなのか。明確でまっすぐな言説は胸を抉るという事実を知れど、湧き上がってこない限り演者ではないのかもしれない。自ら書いといてあれだけど、「演者ではない」という言い方はあまり適切ではない。

  

演者は様々な形があり「伝えたいこと」がある人を演者というだけではないのだと。もちろん、悪いより良い方が良い。行き過ぎた推測は邪推となることも経験済みであるが、「伝えたいこと」の有無をひたすら自分に問う。
そもそも昇華の仕方も人それぞれであり、だからこそ興味深い側面もある。より強く前に打ち出すタイプ、調和に溶かすタイプ。

 

Aが提示されれば常に別を考える自分に確信めいたAはない。考えるから離れられる瞬間、本能的なレベルでの安心感。それを好きといおう。そこは一切変わらない。だからこそ、その道を志したいわけで。理由を明確にする必要も特にないけど、やっぱり好きだと。包み隠すしたたかさも泥臭くなる弱さも全ての起伏を凌駕。

 

そして、生活として共にするものは尊重しすぎてもおかしくなる。やたらと高尚ぶるのもあまり見上げたものではない。ただ、尊重せずに舐めてかかるのは粗悪。ずっと携わっていると当たり前は当たり前となるけれど、当たり前ではない。言葉、文字、音楽。人々が明日を生きていくためのツールとして。状況が違う環境で全てそこに焦点を合わすのはやや難しい。

 

今、録音をしているけど、これが終わればどんな音楽をしていくのか。このことが最近、ひたすら頭をよぎる。自らの根源を探る作業のよう。楽しいや苦しいの上がり下がりも客観的に押し込める。だからこそ、どんな音楽を奏でるのか。音楽に正直に。華々しい成果の前に、根源的な、根っこ。人は自分を見ているようで全く見ていない、人は自分を見ていないようでしっかり見ている。この対立、尊厳でもなく、軽視でもなく。あくまで自然体にいい関係を。独り言の羅列が作品になり得る時まで。

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今日の一曲、 Camille/Seeds

スタンダードなフレンチポップに内省が入り込んだ感じがたまりませぬ。

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