「解釈と創作は別物だ!」 レンブラントの本を読んで
レンブラントの本を読んで
名前だけはめっちゃ聞いたことあった画家「レンブラント」についての本を読みました。レンブラントさんは16世紀末から17世紀初頭にかけて誕生した美術の様式であるバロック期に活躍した画家だ。「光と影の明暗を明確にする技法」で有名ですね。
私はここらの時代の画家は芸術が常に爆発しているぐらいの勢いがあると信じていた。しかし、実際は職人的気質も甚だしいではないか。写実的に描くなどというのは基礎を固めた上でしか成り立たないのではないか。土台がないと芸術の花は咲かない模様。
そしてもう一つ注目したいのだが「解釈」問題。
「主題をどう設定するのか」これは作品を作る上で重要になってくるようだ。
言葉を扱う文章などはその最たるものだけど、「解釈」というのは制限がない。
例えば、私がほじった鼻くそを机になすりつける。机の上に鼻くそがある。(例えが汚くてごめんなさい。)
解釈を使用すれば
どこまでも広がっていくような木目の光沢。
その中心点に置かれた生命維持から排他された薄緑の無機質な垢。
と言える。
つまり、何が言いたいかというと「作品の創作」と「解釈」は別物であると。ただ、えげつない作品を作る人は「解釈」もとんでもないという因果関係は存在するけども。そして私は批評家というのは「解釈のプロ」と思うわけでございます。
作品を創作していた人はそこまで主題を意識しているのかという疑問が残るわけです。これは、作り手のタイプによるのだろうか。自分が何かを創るときは、特に主題など考えずに製作します。主題はこれまでの思考に組み込まれていると信仰しているからです。
そして、話が逸れてきたのでしれっと戻します。
こういう世界では当たり前なのか、弟子たちが書いた絵をレンブランド名義で世に発表していたりするそうだ。異常にお金を出してくれるパトロンの出現だったり、文化が生活に密着しているところが面白いですね。レンブラントさんも破産したり、財産を担保に出したり、なかなかなものです。
近代のヨーロピアンの市民生活とは
もし一度だけタイムスリップができるなら、ルネサンスや宗教戦争辺りのヨーロッパに行ってみたい。むしろ、今からでもヨーロッパに行きたい。本を通してしか敬虔なクリスチャンに会いに行っていない。どこをどう歩いても、絡んでくるキリスト教を肌で感じてみたい。
その強大な対象は信仰され、政治に酷使され、歴史を紡いできた。
何やら本を読む限りでは、処刑が串刺しだったり目も当てられない残酷さもある。
貴族たちの豪快な生活の裏にあった市民生活はどのようなものか。どのように共同体を組み、どのように暮らしていたのだろうか。ローマ、ヴェネツィア、フィレンツ・・・頭に詰め込んだ知識ではなく、体感として知りたい。
お互いを助け合うために作られたコミューン。
相互防衛や相互扶助のために作られた共同自治体も日本の近所づきあい的な雰囲気はあったのだろうか。通りすがりに「こんにちは」とぎこちなく会釈をしたのか。そうではなく、週に何回か集まりバチバチの議論をしていたのか。
謎だらけ。ああ、ヨーロッパ。