ことを成し遂げたいなら「巻き込む力」をもっと意識するべき!?
ことを成し得たないなら、人を巻き込む力がいる。
「この人に言われたなら・・」巻きこめるということは、説得力がある。
それは、内容うんぬんかんぬんより誰が言うかな気がする。
話の内容で判断している人と、印象や仕草などその人が持つ雰囲気に合わせて判断する人がいる。それを混ぜ合わせて判断している人もいるけど。
「雰囲気に合わせて判断」されるということは、裏を返せば自分を演出することで向こうの判断をコントロールできる。
それは、話し方や伝え方を勉強するとできるようになるのかもしれない。人前に出ることをしているなら、当たり前に考えなければならないこと。大事。
ただ、どうしても、相手の気持ちを封じ込めるようなコントロールはしたくない。
絶大なる調和を求めたい。
自然体の定義もわかんないけど、子どもみたいな考えなのかもしれないけど、なるべく自然体でいたい。自然体でいる時が一番パフォーマンス力があるのじゃないか。と思ったりもする。
昨日、「まずは相手に自分のハラワタを見せている」とたかだかに宣言している人がいた。続けて「もうすでにそっちに飛び散っているよ!」と言っていた。普通に笑った。
しっかりと、ハラワタ見せよう。
権力・地位ベースで動くとコントロール合戦に発展する。もはや戦場。これは僕の勘ぐりゆえの視点かもしれない。
ただ、そういったところにワクワクを見出すのもアリだ。
ワクワクしている人はいきいきしている。そのいきいきが結果的に人を巻き込んだり・・。
そして、場を見事に操っている人には尊敬の念もある。すごい。
芸術と暴力性
芸術には暴力性が必要だ。
実際にむちゃくちゃにするとかではなく、何か刺さるものがないと見向きもされない。
だから、暴力性が必要だ。
その人の日常と完全なる別世界へと誘う。中途半端は、ダメだ。
ただ、「これは、人と違うんです」オーラが全開のものは、それはそれでありきたりと感じてしまう。
外側を取り繕っただけのものでは刺さらない気がする。
この辺は何かを表現する者として、考えなければいけない。
芸術と暴力性というテーマについて、もっと熟孝しなければ・・。
とりあえず、知らないことが多すぎるなり〜〜(*_*)