独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

『宗教や観念は生活に必要な便利なツール!?』遠藤周作の「海と毒薬」を読んで・・

医者にとっての「死」の感覚とは・・

 

何人もの死を間近で見てきた医者。いい悪いではなく、人間である限り確実に「慣れ」が生じます。そんな医者にとって、「死」の感覚はどう変容していくのか。

 

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慣れたはずの「死」、しかし、そこまでにたどり着くプロセスが衰弱と解剖実験では大きく違います。「捕虜にした人をどうせ殺すのだから人体実験をしよう」この小説のそんな軸が生々しさを感じさせます。

 

ここからは「死=わからないもの」と捉え、何やら探っていきます。

 

小さい頃の影響と宗教や観念の関係

遠藤周作の小説に離せないキリスト教、何やら小学生の頃に半強制的にカトリックの洗礼を浴びているそうです。そんな彼は本を読めばわかるように、キリスト教を軸にさまざまな考察をなさっているようです。

 

小さい時の影響というのは、その人の根幹をなす、つまり「原点」のようなものではないでしょうか。 それを足がかりに飛躍したり、それがきっかけで道を外れてしまったり・・。「あの頃とは変わった」と思っていても、その表層を剥いていけばピカピカの原点に出会えるかと。小さい頃のそういった原点に、現状、自分が悩んでいる根本的な部分が含まれているのかもしれません。

 

その原点となる小さな玉のようなものを、何とか覆い隠そうとして人は生きながらえているのかも。宗教や観念は、ある意味ではその玉を傷つけないために用意された便利なツールなのかもしれません。

 

死後のことはいくら考えたってわからない・・その「わからない」が宗教と化し、皮肉な見方をすると、それが利用されコントロールされているのかもしれません。しかし、逆の面から見るとそれが救いになっている場合も多々あります。 

 

 

時代に洗脳されていたとしか、表現できない

『海と毒薬』を読んで一番感じたのは、「それぞれが与えられた役割を淡々とこなしている」ということです。捕虜の米軍を解剖していくのは残酷なことなのですが、その医者に対して怒りという感情は湧いてきません。

 

多分、そこには、戦争末期の時代背景が関係しているのだと思います。もし、自分がその時代で、残酷なことをしなければならない立場なら・・どう行動していたか分かりません。

 

何が戦争へと走らせたのか、考えれば要因がたくさんあり、結局のところわからない・・・「時代がそうさせた」という逃げのような言葉以外に思い浮かばないのです。人間魚雷『回天』の話などを聞くと、「時代に洗脳されていた」としか思えません。時代が時代なら、この文章も非国民として封じられるのでしょうか。

いつ死んでもおかしくないそんな状況なら、「原点を傷つけないために用意された便利なツール」を使っても少しもおかしくないように感じます。

 

今の時代にとっての「死」、戦争前後の時代にとっての「死」・・。

やはり、いくら考えてもたどり着けません。それでも探り続けます。

 

考えることをやめるのは、僕にとっての『死』なのだから。