独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

夜の渋谷を練り歩いていると、次どこ行くか迷っている外国人に出会った。

夜の渋谷を練り歩く

 

最近、夜の渋谷を徘徊していた。

都会の喧騒とはまさにこのこと過ぎて、異常なスピード感においていかれそうになる。周囲の人々の行動に予測がつかない。。と、言いながら、お酒を飲んで少し酔っ払っていると、その予測のつかなさが超楽しい。

 

歩いているだけで、イベントが常に起こっている。まさに眠らない街でごわす(´Д` )

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うろうろしていると、四人組ぐらいの外国人にあった。コンビニの前でお酒を買って、喋っていた。よくよく見ていると、次どこ行くか完全に迷ってはった。

 

でも、そんな空気を微塵も感じさせないところに、ポテンシャルの高さを感じた。

 

非常にテンションの高さをまとっていた。

そして、とうとうその時がきた。すれ違う瞬間だ。こちとら、ほろ酔いといえども生粋のジャパニーズ、身体も一回り小さい。勢いが全然違う。

 

なんか、よくわからないけど挨拶を交わした。

何を言ってか言われたか一切覚えていない。なんの言語だったかさえも記憶が曖昧。無敵感がすごかったのもあり、カメラを構えさせていただいた。

すると、快くポーズを撮ってくれた。瞬間でポーズを撮ってくれるポテンシャル。

信じられないほどの統率感。バッチリ決めてくれる感じがたまらない。次、どこ行くか迷っているとは思われへん。笑

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渋谷の街は時におぞましいけど、面白い場所だ。

深い夜にお酒がお供し彩る。明るくなったことにきづかないままに飲む。それが礼儀な気もする。

ああ、平日の昼間からうだうだと飲みたい。(´Д`b

そんな日を夢見て、しゃかりき走る。 

随筆 『彼は育つ。』

彼は育つ

 

母親は、息子を連れて動物園へ行く。檻の中には退屈そうなライオンが眠る。

順番を待ち疲れたかのような、一種の諦念を体内で培ってしまったのだろう。

幼き息子はそんな風に想像した。特に動植物に興味があるわけではない母親は、一周回りさえすれば義務は果たせると考える。結果から先の未来を案ずる大人と、対象について熟考する子供。これしきの対比はよくあることで驚くに値しない。

 

母親は、息子を病院へと連れていく。我が子の無事を案ずる母親は心配でハラハラドキドキとする。幼き息子は、病院の匂いが嫌いだ。それは、ごく直感的に感ずることであり、経験則から得た嫌悪ではない。

 

同じ場所に行けども、立場や経験が違えば感得するものも異なる。そして、「育てる」という行為には必然的に想像力を要する。恩着せがましさに恥じ、自己嫌悪の撞着に溺れていては導けない。

 

矛盾を乗り越え、身を呈してこそ彼は始めて発育する。その瞬間は一生訪れないのかもしれない。しかし、迎えるなら立派に成就させたいもの。誰もがそう願うだろう。母親の腕の中で眠る赤ちゃんは、どんな夢を見ているのだろう。

  

その月並みな疑問に人生の哀れさが表出する。なお、陽気に踊ればいい。

 

忘れるなどはできないが、覚える必要もない。その塩梅を知れば彼は立派に育つのだろう。手持ち無沙汰に過ごす日中も、繰り返しの絶えない道草をしている宵も、萎れた花のような瞳はじっとこちらを見つめる。古ぼけた写真に涙ぐむ。やはり、彼は育つ。

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個性を普遍性へと持っていくためにも、「型」にハマってみよう。

現状とは逆に身を置く

 

なんとなくこなせることと、反対の場所に自らを置く。

それが「勉強」であるとある哲学者が言っていた、と友達が言っていた。

  

これを自分に当てはめてみると、文章の書き方ひとつとっても感じることがある。ザザ〜と文章を綴ると、勝手に自分らしさが出てくる。これは、曖昧になんとなくできることである。(なんとなくできるという表現はなんか違うけど・・)

 

その逆、つまり、それだけで確立されたような不動の文章を書くようにしなければならない。まずは、型にはめる。いつも「型」を感覚任せに折り曲げてしまう。ここまできっちりと「型」にはめられるのか!という方にたまに出会う。

 

確かに自分では絶対できない発想や行動がみて取れる。

そもそも、客観的な話をするときですら、鬼ように主観的になってしまう。その選択が大幅にずれているとは思っていないけど、冒頭に言った意味では勉強していない。

 

基本、私はミクロ、超ミクロなわけです。

ミクロな言動や行動の視野にとらわれてきたからこそ、打ち立てられる創作もあると自負しておりますが。それでは、自分の土俵で高笑いしている蛙です。

 

最近は本当に「型」、つまり、具体的なことを学び土台を作る必然性に絡まれています。そこに、次のステップがあろうことかと思います。

 

その辺りを乗り越えないと、視野が広がらなく価値観を一蹴できない。自分の個性を活かせない土俵にあえていく。そのためにも型を知る。

 

基本的に心の鬱積を掃除しているかの如く、文章を綴っている。

「昔の人の言葉を引用したりしないと、広がりがないよ。今のままでは創くんのことを知っている人しか読まないよ」

自分で気づいているけど、改めてそう言われると納得です。もちろんこれは、目的をどこに持っていくかによりますが。

第一段階の「自分が思ったこと」をつらつらと書いているけど、その「自分が思ったこと」を(いい意味で)型にはめて書くべきなのかなと。

そうしないと、情報としての価値が生まれてこない。同じことを言っても見せ方で変わりまくりです。説得力を持たせるための方法論として、引用や言い切り、感覚の言葉の選択ではなく、いわゆる正しいと思われやすい言葉遣い等、論文っぽく書く感じなのかな。

 

その道のりこそ、個性を普遍性に持っていくやり方なのではないでしょうか。

型にはめようと肩の力が入った文章・・(←頭韻のイメージ)

 

まあ、、気楽にいこう(´Д` )!笑

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