心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

なんとも当たり前な話を噛み締められるように。

2019年6月18日

 

今日はふとしたきっかけで下北沢にいった。

タイプの違ういいライブをふたつみると、「自分をやっている人」が、魅力的で。憧れから始まる。ただ、近づいても、その人にはなれない。何かしら、誰かしらに影響を受け歩み始める。その初動はとても美しくある。しかし、経験を積めばもっと自分を追いかけたほうが、他とも相互的に作用し良い関係が築ける。そういう人同士の会話は、ユーモアがあったり隙のない作品のような。

  

なんとも当たり前な話を噛み締められるように。経験は頭でっかちを生み、時に思考を停止させる。細かい心の動き、その記憶は時の経過とともに薄れる。書き記せるうちは書き記しておく。感じたことを細かく記す。一方で、そればかりではどうなのかと、感じる。日本はとても平和な国。それは今の自分にとって。本当にそうなのか。

 

最近はなんだか物騒なニュースが多い。

まずは知ることからと。先ほど新潟で地震。被害が少ないように。

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創造とは編集である。

週末は南米の演奏を聴きにいった。とても陽気で活力的だ。平穏でいい時間が流れていて、狂気的な感覚や鋭さなど不要に思える。


体験は活字になり、音になり、共有されていく。ブラジルに行ったこともないし、ブラジルの友達も特にいない。それでも音は道を拓いてくれる。

 

歴史の通過点という感覚からみれば、存在を残して終わるのではなく、経験や体験を残して終わる方が人間の生き方に沿っている。数日後、そのような仮説を考えた。ただ、存在を残さないと、経験や体験は目に触れないままになる可能性があるけども。自らの感覚で作っているような気がしても、他の体験を集約させたものだったり。組み合わせを選べるという点においては主体性があるけど、素材は借りてきたもので、それをいかにインプットしたか。改めて。


その点を抽出して考察すると、創造とは編集である。素材を共有していく辺りがとても人間の営みらしい。自分自身が絶対的な人、相対的な人、それは創造する編集者としてのタイプでそこに優劣はない。

 

共有している、シンプルにそういう感覚の方が好きだ。

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Angiosperms「継ぎ目」

2019年6月14日

 

無花果被子植物だ。胚珠が子房の中に収まっている。むき出しにされず、時を待ち、誰の目にも触れずに、それでも自己を見出し、複製とは違った方法で将来は種子となる。紙とペンで効力を成す確約的な契約とは違い、隙間を度々に与えられている。

 

子どもが葉に水をやる。君の感じた瞬間的な、すべてから分断されたその感性は、情景や創造力へと転換できる。その行為は位置の移動で維持するための思想にあらず。
一粒の水がぽとりと葉に落ちた。継ぎ目の見つからない定型的な表現は、ソフトウェアを意識しないシームレスなシステムのごとく。導くことと縫い付けることの違いは、浮かぶ映像に対して、外部からの刺激により動いた同一なる点を除き、その固有振動数を育む。

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