日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

12曲、録音完了。 こいつといく。

録音

よっしゃあーーー。
12曲録れた!!もうとりなおさない。

異常な技術とかはわからないけど、胸を張っていいアルバムができる。あとはミックス。私はこの武器を持って、色々といく。

納得行かず、撮りなおしまくった。下手やし説得力に欠ける気がして。

相方は作品なんです。いろんな人に聴いてほしい。遠回りとか近道とかわかんないけど、こいつといく。

一時の感情ではなく、長年やってきているので。俺以外は俺を真似れない。気持ちがうわずるなど普段ない、ゆえに。

今日はそれに尽きる。

 

スナックもみじへ

 

録り終わった後、大久保へ。
落ち着きます、安心できるスナックもみじ。写真を2枚ほど

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いいお酒が飲めました。

あたまにうかぶ

あたまにうかぶ


無であるとは。例:本を読むとき違うことを考えてしまうので、音読するようにしている。内容の吟味とは頭で情景を思い浮かべることか。それとも、つまり、だから、と論理立てて結論付けていくことなのか。感覚の一致というか、何も考えていない状態とは、「何も考えていなかった」と後から認識しなければ生まれないのか。

  

その状態が直観的に塗り替えられている気がして。何も考えていなかったかどうかは常に不明瞭である。意識が統一されている感覚か欲しい。現在、実施している行為に対して、集中したいのだ。

「あれは、ああしたらいいのではないか」と頭に浮かぶのは良いことだけど、もっと目の前に夢中になりたい。こなす行為、そのものを有意義に。

 

日々、繰り返しで淡々となりがちだが、行為に対する純粋さはやがて広い範囲に良い影響を及ぼすはず。それぞれがそうすれば相互的な助けになるかと。


無意識の行動時の感覚と意識の深いところに及ぶ観察、その二点が出会う場所に良い集中があるのでは。繰り返しになりますが、そうした方がけっきょく助け合いも起こるのではないか、そんな構造で世も成り立てば・・と、理想論か。

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月曜日から丸の内

月曜日から丸の内

 

今日はまさかの丸の内。オフィスレディの聖地。ヘポタイヤさんに逢いに。

東京駅に降り立つと、建築の気合いが違うというか。建築の人の本を読みたい気持ちが湧いてきて。

 

音楽しているから、音楽している人の視点はなんとなくわかるつもりでいるのですが、建築家の人にはまた別に共通する根底の感覚はあるのかなと思い、気になるところ。

より高度な匂いがします。

建築家の方の本とかを読みたいとか思いつつ、読んでいない本が溜まる一方で。時期が来たら読もうと。今日は大人の方といっぱい話した。大人の人は親切で優しいからすごく心地が良いです。 


安心できます。平日らしさもあって楽しかった。

ということで、丸の内の写真。何かと絵になる。

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