「地面を撮るブームが訪れていた話!!」 切り取るからこそ、わかること。
地面を撮るブーム
数年前、ほんの一瞬だけ携帯で地面撮るブームが自分の中で起こった。
なぜ、地面を撮るのか。歩行者が歩く道路は舗装されており、幾何学的な模様になっている。なんか、それを撮っていた。別に地面でなくとも問題はないけど(´Д` )
ちなみにそのブームは一週間で去っていった。「なぜ、地面を撮っていたのか」と今更、頭によぎってきた。もちろん、特別な理由などはございません。
そして、先ほど幾何学的とは言いましたが、幾何学的でない場合も十分にあります。普段歩く地面に視点を向けてみると、いろいろな模様がありますなあ。という無知蒙昧な感想を抱くわけです。
マンホールとかも撮っていたなあと。ということで、地面を紹介していきます。
地面を紹介されてどういう感じで見ればいいのかは、全然わかりません。笑
模様の羅列ということでお許しを(´Д` )つ
見返してみたら、めっちゃずれている!!
何が幾何学的やねんと。。笑
気にせず私の地面フォルダがどんどんと火を吹いていきます!
これは、石のパンフレットとかでよく見かけるやつや。これ何という種類だったけ。。
乱雑な地面でも、写真やから四角の枠があるため、逆に調和している。三次元を二次元に変換してみると不思議な気持ち。ボコボコしていたものを平として捉える。
ここで、余談やけど、人間は嫌なことを思いつくけど、何を選択し吐き出すかのフィルターに本質があるというのをTwitterでみかけた。確かに、面白い視点。
そして、最後は木です。
ストロング感満載の木です。
四角の枠で切り取るから浮かび上がることもある。
人間の目は四角の枠ではなく、視野でとらえている。それを形として抽出してくれる。写真やカメラの興味深い点の一つでございます。
切り取るからこそ、わかること。切り取らないからこそ、知っていること。
地面に焦点を当て見つける。
ヴァージニア・ウルフさんの小説「燈台へ」を読んで
燈台へを読んで
ヴァージニア・ウルフの時代が到来しました。
全く知らない状態で、ヴァージニア・ウルフと聞くと強面プロレスラーを思い浮かべそうになりますが、とんでもございません。
心の扇動、いや、心の先導、いや、心の仙道、いや、、、ヴァージニア・ウルフです。
小説を読んで久方ぶりに胸がポッと熱くなった。物語を風景描写や行動から紡いでいくのではなく、あくまで人々の流れる意識を中心に描く。時間感覚失うような。それは小説にしなければ、「お父さん怖かった。お母さんは、気を使って場を回している。10年経った・・」ぐらいの話です。なんでもないような日常に焦点を当てて、瞬間の気持ちをわざわざそこまでえぐりこまなくてもと思う節があった。
正直、序盤はすごく読みにくかった。「みんな、意識の中から出てこうへんやん!あかんあかん!」と思っていた。読み進めているといつの間にか吸い込まれた。特にトーンが変わるわけではないけど、最後らへんはハッピーエンド感があったのがよかった。
意識にえぐりこんだ小説は、えぐりこんだまま終わるパターンをよく見かける。
一線を画していた。惚れ込んだ勢いのまま、ヴァージニア・ウルフさんのことを調べてみた。幼い頃から性的虐待を受けていたり、鬱を繰り返していたりと想像を絶する道を歩んできたようだ。その気持ちと同一にはなれないけど、そういったものがあの文章を作ったとも言えよう。
繊細な美しさの裏には破壊された人格。
自分自身も多少なりとも繊細な部分はあるけども、ここまでかと問われるとそうではない。後書きに連ねられていたヴァージニア・ウルフさんのコメントが心に残る。
生は意識を持ったその最初から終局に至るまで、われわれをとり巻いている半透明な暈、燦然と輝く光彩(ルミナス・ヘイロウ)、である。
この定まらぬ、未知の、捉えがたい精を書きあらわすことが、小説家の仕事ではないだろうか?
できるだけ、余分な皮相的なものを混えるのを避けることによって、たとえそれが、畸形に、複雑に表されるかもしれないにしても
なるほどなああと(´Д` )
曖昧で釈然とせず、次の瞬間には変わるボコッとしている、そんなものを書き表すのか。この辺りを掘っていこう(´Д`つ
ルミナス・ヘイロウに愛を込めて。
知的活動も肉体活動も大切にしよう。
運動で区切りをつける
1日のリズム、同じことの繰り返し。再び、営み。
1日という区切りを感じることなく、瞬間を色濃くし途切れのない人生を生きるのも素晴らしい。ただ、区切りをつけるのも悪くない。
疲れた体に鞭を打ち、運動をしてみる。中途半端にではなく、久しぶりにフットサルに参加した時のような感覚で「いやあ〜、運動したなぁ」と呟く。自らの運動にマッスを感じるほどに。
そして、ヒンヤリとしたミネラルウォーターやらをごくりと飲む。あらよっと言わんばかりに丁度お腹が空く。コンビニで買った缶チューハイと烏賊の明太子を食べる。
気づいたら、心が回復している。そして、身体はいい感じに疲れ、そのまま気持ち良く夢の中へ。後は野となれ山となれ、探し物はなんですか状態。
惰性の中に真価を探し続ける行為にほとぼりが冷めたらなら、身体を動かし区切りをつけてみるのもありだ。「身体を動かす」とはなんと基本的な動作なのだろうか。
ちなみに、文明が起こる前からスポーツは行われてたそうな。狩りは生きるための行為だけど、身体を動かしていた。紀元前8世紀には古代のオリンピックが行われていた。悶々とした時はシンプルだけど、身体を動かすのがやはり良いと思われる。
知的活動も大切に肉体活動も重宝しよう。
話をぐるりと、、展開、、いや、転回!!
批評とはなんと難しき
批評というのは、とても難しい。現実にコンプレックスを感じ、身を守るための批評にあまり魅力を感じない。批評にもギャップが必要なのではないだろうか。小難しそうなことを言いそうな人(どんな人?)が小難しそうなことを言っても、耳を傾けにくい。小難しさのせめぎ合い、傷の舐め合いのようにはならないか。やはり、ギャップが必要な気がする。そうなると、批評といいながら、見た目や雰囲気も重要視される。
「批評に生産性は必要なのか」という問題も大きい。読んだ時に、ハッとさせられる時と、哲学こねくり回しすぎて、わからへん!となる時がある。批評だけではないけど、伝えるとはなんと難しいか。独りよがりが悪いとも言い切られへんし。
それはその人の幸福になっていれば、それはそれで良いのか。
言葉をいくらなぞっても、自分に落とし込んでいないと力は出てこないのか。小難しい本に傾倒する心と「結局何が言いたいねん」と思う心を持ち合わせるべきなのか。
人間の機微が感じられないような批評はやはり聞きにくい。
言葉尻にやられるのではなく、人の襞、機微を大切にしましょうという話(´Д` )つ