「化粧」をするのは顔だけじゃない。 見せる部分と隠す部分
化粧は演技
昔のヨーロッパでは、チューリップ投資が流行っていただと。
富豪の象徴だと。チューリップの詳しいことは全然知らないけど、個人的には「花に狂わされている人間たち」という構図が素敵です。
神に許しを乞う免罪符を協会が売っていたのだと。
お金が目的を装っていないお金儲けはこの世の中にどれぐらいあるのだろうか。
無意識に作られ無意識に受け取られる。要は横流しということですね。
さらに、「化粧」をするのは顔だけじゃない。言葉にも「化粧」を施す。
見せる部分と見せない部分とがある。
と、脳科学の茂木さんの本に書いてあり関心した。
個性が出発点で普遍を目指すことこそ、人間性の習得である。
というようなことを、小林秀雄が言っていたと脳科学の茂木さんの本に書いてあり、さらに関心した。
個性が出発点と捉える発想よ。
個性に甘えるのは視野を狭めると思っていた僕にぴったりと当てはまる言葉だった。
(画像で一休みしてください(´Д` ))
化粧ついでに顔について言うと、掘りが深くて目力が強いと、たとえ何も考えていなくても凄そうに見える。「顔はLIVEで、LIVEは顔だ」人は見た目ではないと言うが、相手と話すとき、相手が見えている。つまり、視覚の情報が絶対的に含まれているのだ。表情や雰囲気などの目に見えないものと視覚情報を合わせて中身を判断している。誰だって。
「化粧」という観点から、「仮面」「演技」「内面」「社会性」といった自我の悩みが相当克服されるのではないか。化粧は社会に対しての仮面であり、演技であり、理想の内面の見られ方のヒントを与える。
「人によって自分が違う!」普通に考えると自我とは絶対的ではなく、相対的なものだから、そりゃあそうだ。
話があっちゃこっちゃしているが、茂木さんの本を読むと昔悩んでいたことが体系的に書かれていて、解決されている。
すっきり!!(´Д` )
と、このまま通り過ぎていってしまってそれで本当にいいのだろうか。
自由律への迎合
無私への道もカゴの中の鳥のように感じる。無私といえども、日々の人間関係など精神的なインフラが出来上がっているからこそ成り立つように思う。
そのインフラがないと無私もへったくれもあったものじゃない。文体を作らずに自由律のように書き殴るとすごく読みにくい文章になりました。
反面教師として、計画や整理はクオリティ保持に役立つものだと思う次第です。
適当というのはよくないが、これまた適当に吐き出さなければならないのです。自然と「である調」が「ですます調」に変わったり甚だ忙しい駄文です。
逼迫しているのと安心感を持っているのでは、大きく人生が変わるような気がします。
本当はどちらがいいのでしょうか?
繰り返しになります。昔、ヨーロッパでは神に許しを乞う免罪符が売られていたのです。主張がないようで癖がある文は本当に読みにくいのではないかと苦心です。
安心は状況を気づきにくくさせる。 また、安心は「当たり前」に変わっていくリスクを背負っている。
安心感は状況を気づきにくくさせる
「一緒にいて楽しい人ではなく、離れて寂しくなる人を人生の伴侶にしなさい」みたいな言葉をネット上のどこかでふと見ました。
いなくなって初めて気づくとは恋愛の常套句ですが、人類の叡智はこの事象を克服できてないように思う。もはやその通りではないですか。
「面白いではなく、楽しいや安心感が本当のユーモアだ」と思っている私ですが、安心感というのは気づきにくいのです。
人は安心すると、とかく文句を垂れる。
仲良くなればなるほど、態度が横柄になるのもそういうことだと思いやす。親しき仲にも礼儀ありという言葉は見事に教訓になりますね。
付き合っているときは自分の主張をこれでもかとしていたのに、振られそうになると「なんでも言うこと聞くから!ダメなところ治すから!!」みたいになるパターンもあるかと思います。
これはまさに安心感の喪失による、安心へのしがみつきです。
テレビのバラエティなどにも共通のことが言えるかと。
当たり前のように流れを作って笑いが生まれて・・。相当のエンターテイナー力だと思いますが、自然すぎて見ている人はそれに気づきにくい。氷山の一角だけを見ているといいますか。テレビに対して「あの場面がああだ、こうだ」というのは、バラエティ番組がエンターテイナーショウとして成り立っているからこそ言えるのだと思います。
そう、何が言いたいかというと「安心感を持つとさらなる欲が湧いてくる」ということです。人類のカルマです。
安心感は「当たり前」に変わっていくリスクを背負っているのです。
仕事の出張で我が嫁は3日間ぐらい家にいませんでした。
いつも一緒にいると3日ぶりに会うだけで斬新も斬新です。そして、こんなにも助けられていたのだなと感じまくりです。
なんと安住の地で暮らしていたのだと。
その時、ふと「一緒にいて楽しい人ではなく、離れて寂しくなる人を人生の伴侶にしなさい」という言葉が頭をよぎりました。
感謝状でも渡そうかなと(´Д` )ぴげーーーー
いつも平和的であるなんて無茶かもしれないけど、周りの人には優しくね。
自由に生きるのもいいけど人に優しくね。
と、最近の自分に言いたいんです。楽しい楽しいもあるけど、人がおってのものだからと。どうも最近、我が思想に走りがちな気がするんだ。
それは、個性でとても素敵なこととも思うんだけど、周りの人がおってこそなんだよね。何が人のためになるとか、自分の幸せが人の幸せになるとか、正直よくわからんけれど優しくね。
分析や批評も大事だけど、もっと自然体の広い何かをね。
頭で考えすぎて動けない。なんて時期はもう過ぎ去ったのだから。
おかえり、ただいま。ありがとう。ごめん。
質ではなく生成される、浮かんでくる場所ではないのかなと。
いつも平和的であるなんて無茶かもしれない。
だけど、いつも、穏やかにね。もっと周りのことを考えないとな。
なんかそんな気がする。自分が面白い状態であることってそんなに大事なのかな。
何だかそんなことはどっちでもいい気がする。
平坦、平穏、平常。
自分のためでもなく、だれかのためでもなく、そういう存在。そんなのが平和な感じがする。ボッーとしているわけでもなく、尖っているわけでもなく、咎めず許す。
「歩き疲れ、殴り比べ」という志人さんの一節が頭に浮かんでくる。
眠たい時は深くゆっくりと眠ろう。長い間、充満していたガスが抜けたみたいだ。
もうすぐ、もうすぐ春が迎えに来る。色々と膨らまし過ぎたのかもね。
今日は暖をとって・・どこかの誰かもそんなまったりとした気持ちだったりね。
冬は明ける、明日からも晴ればれとしてがんばろう。