お酒を楽しく飲んだ結果、Hくんと『素晴らしい乳房だ。蚊がいる。』を発足しました
飲酒がもたらす行動
おはようございます。
朝の7時から記しております。弱二日酔いです。涙
DHCの薬のんで、ヘパリーゼ飲んで、飲酒後はしじみ汁飲んで・・。
それだけ努力しても残るということは、お酒が弱いんですね。そして、酔っぱらうとある程度陽気になり、後は一点を見つめて時が止まります(笑)別に何を考えているわけでもないけど、ぐわっーーとね。
チャクラが開いたのか、感性が鋭くなって一人でコップの中を撮ってしまっていたり・・。
意外にその写真を気に入っていたり。(´Д` )
人前でこれをやってしまうとか完全に堕落、寂寥、廃頽、まあまあダメ人間ですね。
「そういう時もある」という謎の開き直りと、「あかんやろ」というしっかりせな意識が葛藤します。
・・そういう隙がある人間ということで、どうか一つ(*_*)!!
徹底した人間には今後、一切なれそうもない。涙
恵比寿へとレッツゴー
昨日、恵比寿にHくん(最近Hくん絡みの話題がすごいでてくる!)と飲みに行きました。店に行く前にぶらぶらしていると、恵比寿の実像が少し見えてきました。
それぞれのお店一軒一軒が広々としており、店同士が密集している場所はありませんでした。
タマニワというセレクトショップがあり、私たちはそこに入ってみました。
そこは野球のユニフォームやシャツが置いているのですが、おしゃれとして着れるものばかりでした。野球を見事にファッションに昇華させていました。
恵比寿はやたらと工事が多かったらしくHくんは、「街の新陳代謝やばいな」とパンチラインを吐きだしていました。
あと、「やたらとサンマルクカフェが多い」と嘆いていました。
その言葉を聞いて、僕は「そうなんだ」と心の中で思いました。
その後は、酒場について焼うどん食べて、グビグビと(´Д` )
「同じ価値観の人といると楽しくなる」利害を度外視し、頭で考えずベラベラ言葉が出てくる。ひたすら笑う。うん、すごくすごく楽しい。
「自分たちが楽しいのもいいけど、周りを見よう」と反省をしつつ、悪ふざけの延長戦上でCrewを発足しました。
「活動内容はなんでもいいけど、Crewの名前は真剣に考えよう!」
その結果・・
素晴らしい乳房だ。蚊がいる。
に決まりました。(パチパチパチ)有名な詩人の一節からHくんが繰り出してくれました。2人は大盛り上がり!!(8〜9割の人はどん引きだと思います!)
最終的には、「メタ認知が過ぎる!」と主催者の方につっこまれて帰ってきました( ^ ^ )/何を話していたかあまり覚えていませんが、とりあえず「すごく楽しかった」ということは確かです。
『素晴らしい乳房だ。蚊がいる。』の活動内容は特に考えていませんが、寺に泊まろうだったり、湖の近くでキャンプファイヤーしてサイファーしようだったり、山登ろうだったり、飲みにいこうだったり・・まあ、楽しく過ごそうということです(´Д` )
身内ノリが加速した文章失礼いたしました(´Д` )。
そして、恵比寿の写真がねえ!ということで、大宮の空をお楽しみください。
スマホで撮ったけど、綺麗だよ( ^ ^ )/🎶
「風景描写はイメージを膨らまさせるためだけに存在するのではない」 描写のための描写を追い求める。
風景描写について
情景が頭に浮かぶような風景描写は素晴らしいという一般論がある。
確かにその通りだと思う。イメージを掻き立たせるのは、文章にしろ音楽にしろ創作に必要な要素である。しかし、それだけで良いものなのだろうか。
風景描写について私は感じていることがある。
描写のための描写といいますか、文章自体が美しいということが大切なのではないかと思うわけです。
三島由紀夫先生はまさにそういう感じがします。文体のための文体的な(´Д` )
当たり前ですが、文章を構成しているは、漢字・カタカナ・ひらがなです。描写自体の美しさを追い求めるなら、やはり漢字を知っている知らないで大きく変わってくるのではないか。
ただ、たくさんの漢字を知っていても適切なタイミングでぶち込まないと美しい文章にはならない。この辺は感覚・感性が大切になってくるわけですね。
もっと美しい文章を書きたいので、漢検の勉強でも始めようかなと思う日々を過ごしていると、友人Hはこう言いました。
「簡単な言葉でどこまで沁みらせられるか、そのためには古文を学ぶべきだ」
ぐぬぬ・・。日本語の元の形、知って損はないぞと。古文の勉強もしようかなと思うわけだす。
描き方で印象が変わる
言い方が違うだけで言っている内容は一緒ということは多々ある。
例えば、
「やりたいこといっぱいあんねんけど、なんもせえへんかったらでけへんし、時間を費やしたら結果は出まっせ。どんな心境であろうと定められた道をいくまでや!!!」
と熱燗をぐびぐび飲んでいる酔っ払いが大衆居酒屋で言う。
これを難解な感じに装うと・・
「並べられた欲望の資質が小生に語りかける。
一つひとつは放置ゆえに錆び、研磨の連鎖は虹を架ける。軽やかだとしても、這いつくばるとしても用意されたアーチをひすたらくぐる」
となるわけです。言っている内容は一緒なのに、見せ方でこれだけ変わるわけです。
(意識的か無意識的を問わず)印象操作というのは、世の中の至るところにある気がします。広告などはそれを徹底的に考え抜いたものの気がします。
とりあえず、日々、言葉の研究に勤しめ、!きえい(´Д` )
こらっ!さぼるな、さぼるな。
「解釈というのは感情の上でこそ成り立つものだ」 世界の全体を知りたい欲求。
生きている理由
今日、「なぜ生きているのだろう」という永遠の問いに少し光が当たった。
それは一時の興奮によるものなのかもしれない。そうだとしても、書き記しておきたい。
一週間前ほど、友人のHくんと食事をした。
これからどうしていきたいやら、感覚・価値観について楽しく話していた。
そこで私は「(世間一般で言われる)成功者になりたいのは、知りたいという欲求を満たしたいから」的な発言をしたように思う。Hくんはダンディな声で「ある意味、純粋やな」と呟いた。
その言葉が特に印象に残ったわけでもなく日は過ぎた。
最近は科学の本やら、世界を解明しようとするプロセスを持つ本を好んで読んでいるが、その中で脳科学者の茂木健一郎さんの本を読んでいた。
茂木さんは、世界全体を引き受けるのが若い頃からの野望だったと述べていた。
指向性、全体性、プラトン的世界、自然言説主義、数理主義、因果的時間制約・・など「なんとなくは分かるが具体的に説明しろ」と言われると困る言い回しがたくさん出てきた。それでもその本から情熱がほとばしっているのがわかった。
抽象的で専門的な学者言葉(?)を使う本は結構、読んできたように思う。
でも、そこには何かが抜けていた。茂木さんの本にはその抜けは情熱によって埋められていた。
その情熱は感情のレベルで論じられているように感じた。
世界全体を引き受けるのは、そもそも不可能という前提に立ち、感情や人格のレベルに落とし込む。
と、書いているのもその本に記された、この一文に共感したからだ。
「感情」のレベルで世界を引き受けるということしか、私たち人間には道が開かれていないのではないだろうか。
私はこの一文を読んだ時、自身の創作が頭に思い浮かんだ。
体系的に理路整然とまとめる技術は確実にいるが、感情がないとそれは意味をなさない。緻密で革新的な自動車もガソリンがなければ走らない。
「解釈というのは感情の上でこそ成り立つものだ」とその本を読み思った。
さらに言えば、感情の上に認識の世界は作られているのかもしれないと・・。
そして私が「あれもしたい、これもしたい」と一つだけを選ばない理由もわかった。全体を知ることから遠ざかる気がしているからだ。
人生の途中で知りえた曖昧な感覚を音楽・写真・文章というツールに落とし込むわけだけど、その根本にあるのは「全体を知りたい」というただ一つの欲求だった。それは、私が生きるとてつもなく大きな理由だ。
27歳の冬、「客観性に収斂せよ」という祖父の言葉が沁みる。