独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

言葉は頼り甲斐のある兄であり、また、傷つきやすい弟である。

言葉は頼り甲斐のある兄であり、また、傷つきやすい弟である

 

上、下、右、左、言葉は身体的なものの近くから現れたのではないか。身体の近くから、足の役割、手の役割、そこから言語が産まれたとしたもおかしくはない。つまり、動作と言葉が連関しているのではないかと。
言葉の捉えようは可能性の宝庫、アングルが無数なので、どう思考しようと興味深くなり得る。 


発音ひとつ取っても、内的なやつと外的なやつに分かれる。
篭る音と世界に対して発する音。ある種、仮定的な考え方ではありますが、ひとつ、発音を突き詰めていくと真理に近そう。「か」という音は刺々しく「ぬ」はまろやかであると。

しかし、体の構造上(舌の性質)、そうなって、後から認識されたものとしてもおかしくはない。人間や歴史の不可思議さは先天性か後天性どちらか、思考する瞬間にあるのではないかと。言葉は考察の価値であり、頼り甲斐のある兄貴でもあり、脆くも、人を傷つける冷めた目と同様のセンシティブな側面も持ち合わせていると。

 

価値のあるものとして、大切に扱いすぎても、生きてこない。「かわいい子には旅をさせよ」ではありませんが、あまり言葉に対して過保護になると不健康のような気もする。一番、便利で敏感な存在。超優しい人が怖いかのごとく、表裏を持ち合わせた稀有な存在。


一癖や二癖があってこそ、言葉に人間と。全体主義的な目的遂行のための犠牲ではありませんが、活発的な「生」は主にそちらに傾いているように思います。
物質的な・・精神的な・・どちらにしろ言葉は関わってくる。
そんなことを本を読み耽りつつ、思いつつ、最後に、一言。
「こなしているだけの言葉を見透かす」
眠る前に、まずは自分に、ごきげんようと声を掛け深い眠りにつこう。
備忘録ばりの筆圧、ゴメンあそばせでございまうす(˙⌓˙)

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