独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

レコードを聴きながら 「ある晩に」

レコードを聴きながら

 

「あれは去年の今頃 想いは想いは募る」かぐや姫のライブ音源を収録したレコードから、そう流れる。大きく円いバイナルに詰められた音。ある一瞬のどこかの国のどこかの集い、その記録は距離を超えて僕の耳に届く。そういった想像は人生を豊かにする。

毎日が繰り返し、無味乾燥。足るを知るとは理屈であり現実は退屈だ。そういう時こそ想像を頼りに生きているのだ。ただし、妄想は病みをしつらえる。表裏一体と繰り返しの勘繰り、眠る前に飲む一杯の梅酒、ほろ酔いのまま記憶は消えていく。

  

つらつらと書き連ねる、殴るのに近い言葉。時代が言葉を軽くしたわけではないのかもしれない。ネットワークの発展により情報が入りやすくなっただけだと。価値が軽く見えるのはプロセスが霞み、結果の情報を目の当たりにしてしまうからなのではないだろうか。人類の叡智とは。仰々しく考えずとも、自然美、様式美、型に流し込むことこそ、本質なのかもしれない。

 

人間は動くものに興味を示す、反対に文字は自らで追い、考える行為を生む。テレビはその本質を突き、映像を流し、人間の心をくすぐる。ある意味できっちりと型に流し込んでいる。プロフェショナルとはある意味で、その鋳型に嵌め込むことか。軸において連続性をもつアナログに懐古を覚えるのもそんなところ。
鋳型にせめてもの柔軟性を。

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