独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

抽象を追い続けるための哲学書たち。

抽象を追い続けるための哲学書

 

今日は、ヘッセの春の嵐を読了した。

いやあ、ヨーロッパ文学の人間模様の描き方が好き。「やれ観念、それ観念・・」そして何かと仰々しいものだなあと。たまたまあの娘の家の前を通り、窓から彼女の姿が見えた日には主人公激情。「ああ!!あの芳しい姿、またとない香り、彼女が振り向けば空が黄昏れる!」ってな感じで。笑

 

後書きを読んでいると「作家は抽象を追いかけ続けるものだ」というようなことが書いてあった。もはや、「抽象を追いかける」という言葉自体がすこぶる抽象的です。抽象は感性へと昇華されるならば、確かに作品は唯一無二になるのだろうとは思います。

 

哲学を「体系的に学ばねば」と思いながら、気がつけば幾万年の月日が経っています。生活の流れが意識を飲み込んでいる。これは「気がつけば、年を経てる」パターンだ。

生活の流れを無情の意志で食い止める!

 

届きました。じゃじゃん!!哲学マップ!!(ドラえもん風)

あと、アリストテレスさん。

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哲学を俯瞰的に見ることから始めよう。なぜ、哲学かというと、哲学は「哲学をする」としか言いようのないように抽象度が高い気がするからだ。自分の作品に何がしかの影響を与えるように思われる。「哲学書を読んでいたら、浮かんでくるメロディがなお良質に変わるのでは」という希望もある。

 

ニーチェとかアリストテレスとかをちょいちょい読んだことしかないような気もするぞ。「知りたい」欲を常に掻き立てて、直感的に情緒的に哲学を学ぼう。そして、読んだ本のこととかの内容ほとんど忘れている。が、前に進むしかない。

 

読書は人格を形成するかどうかは不明瞭。何かしらの影響は我が脳に与えるように思われる。依存はダメよだめよ。人生を狂わすよ!と言いながら、哲学書を腕に抱え希望と戯れる。