日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

いつも平和的であるなんて無茶かもしれないけど、周りの人には優しくね。

自由に生きるのもいいけど人に優しくね。

と、最近の自分に言いたいんです。楽しい楽しいもあるけど、人がおってのものだからと。どうも最近、我が思想に走りがちな気がするんだ。

それは、個性でとても素敵なこととも思うんだけど、周りの人がおってこそなんだよね。何が人のためになるとか、自分の幸せが人の幸せになるとか、正直よくわからんけれど優しくね。

  

分析や批評も大事だけど、もっと自然体の広い何かをね。

頭で考えすぎて動けない。なんて時期はもう過ぎ去ったのだから。

おかえり、ただいま。ありがとう。ごめん。

質ではなく生成される、浮かんでくる場所ではないのかなと。

 

いつも平和的であるなんて無茶かもしれない。

だけど、いつも、穏やかにね。もっと周りのことを考えないとな。

 

なんかそんな気がする。自分が面白い状態であることってそんなに大事なのかな。

何だかそんなことはどっちでもいい気がする。

 

平坦、平穏、平常。

自分のためでもなく、だれかのためでもなく、そういう存在。そんなのが平和な感じがする。ボッーとしているわけでもなく、尖っているわけでもなく、咎めず許す。

 

「歩き疲れ、殴り比べ」という志人さんの一節が頭に浮かんでくる。

眠たい時は深くゆっくりと眠ろう。長い間、充満していたガスが抜けたみたいだ。

 

もうすぐ、もうすぐ春が迎えに来る。色々と膨らまし過ぎたのかもね。

今日は暖をとって・・どこかの誰かもそんなまったりとした気持ちだったりね。

 

冬は明ける、明日からも晴ればれとしてがんばろう。 

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