「解釈というのは感情の上でこそ成り立つものだ」 世界の全体を知りたい欲求。
生きている理由
今日、「なぜ生きているのだろう」という永遠の問いに少し光が当たった。
それは一時の興奮によるものなのかもしれない。そうだとしても、書き記しておきたい。
一週間前ほど、友人のHくんと食事をした。
これからどうしていきたいやら、感覚・価値観について楽しく話していた。
そこで私は「(世間一般で言われる)成功者になりたいのは、知りたいという欲求を満たしたいから」的な発言をしたように思う。Hくんはダンディな声で「ある意味、純粋やな」と呟いた。
その言葉が特に印象に残ったわけでもなく日は過ぎた。
最近は科学の本やら、世界を解明しようとするプロセスを持つ本を好んで読んでいるが、その中で脳科学者の茂木健一郎さんの本を読んでいた。
茂木さんは、世界全体を引き受けるのが若い頃からの野望だったと述べていた。
指向性、全体性、プラトン的世界、自然言説主義、数理主義、因果的時間制約・・など「なんとなくは分かるが具体的に説明しろ」と言われると困る言い回しがたくさん出てきた。それでもその本から情熱がほとばしっているのがわかった。
抽象的で専門的な学者言葉(?)を使う本は結構、読んできたように思う。
でも、そこには何かが抜けていた。茂木さんの本にはその抜けは情熱によって埋められていた。
その情熱は感情のレベルで論じられているように感じた。
世界全体を引き受けるのは、そもそも不可能という前提に立ち、感情や人格のレベルに落とし込む。
と、書いているのもその本に記された、この一文に共感したからだ。
「感情」のレベルで世界を引き受けるということしか、私たち人間には道が開かれていないのではないだろうか。
私はこの一文を読んだ時、自身の創作が頭に思い浮かんだ。
体系的に理路整然とまとめる技術は確実にいるが、感情がないとそれは意味をなさない。緻密で革新的な自動車もガソリンがなければ走らない。
「解釈というのは感情の上でこそ成り立つものだ」とその本を読み思った。
さらに言えば、感情の上に認識の世界は作られているのかもしれないと・・。
そして私が「あれもしたい、これもしたい」と一つだけを選ばない理由もわかった。全体を知ることから遠ざかる気がしているからだ。
人生の途中で知りえた曖昧な感覚を音楽・写真・文章というツールに落とし込むわけだけど、その根本にあるのは「全体を知りたい」というただ一つの欲求だった。それは、私が生きるとてつもなく大きな理由だ。
27歳の冬、「客観性に収斂せよ」という祖父の言葉が沁みる。