『26歳の男』 1000文字小説
『26歳の男』
部屋の右側に置いているスピーカー、そこから聞こえてくるスネアに体を合わせてみる。その強調されたスネアは、力技でドアを開けようとする子どものようだ。
「貯蓄されたエネルギーを外に掃き出そうとする」、それは等間隔で耳を刺すスネアに学んだことだ。
音楽は組み合わせで・・まるで数学のようだ。確かに「ある面」ではそうなのかもしれない。しかし、「音」は違う。そこに一つの人格を内在させられるのだ。世に言う表現力はそのことを指しているのではないだろうか。
そもそも、意味を成り立たせる文字を使って、「音」を表現しようとすること自体に無理があるのだ。それは、音の表現ではなく、言葉での表現なのだ。「音」と「言葉」の関係性は、切っても切れないことはいうまでもない。
ふとした思いつきに、気分だけは一丁前になる半ズボンの26歳。
2台の机を叩き、音を比べて微笑を浮かべる。さらに、あくびを一つ。
もちろん、そんな雲の上から覗くような心構えでは、何物をも生み出さない。
そんな彼がふらっと外に出た。向かったのは近所の中華料理屋さんだ。
そこでは、口角がやたらとあがった二つくくりの少女のキャラクターが迎えてくれる。
片目をつむりながら、楕円形に口を開け爪楊枝を歯に突っ込む老人、店の状況を把握したつもりで店員に勝手に指示を出す常連、そこで唐揚げ定食を頼む。
程よい噛みごたえがあり、なかなかの満足をもたらす。
もちろん、食後は爪楊枝を使う。
近所から5分もしない中華屋さんから帰ってくると、30分ほどの眠りにつく。
ここまで彼の計画に寸分の狂いもない・・それがなによりの問題だ。
直感は分析や客観、全てを網羅している綜合的なものだ。日常は行動の連続であるがゆえに、ただ無意識の動くままでいい。全てを網羅しているのだから、その積み重ねが夢見た結果をもたらす。
真理を悟ったような気になっているこの時間も、もちろん彼が生み出したものはない。
気持ちよく寝た彼は、しばらくチューニングされていないギターをかき鳴らす。
気分で覚えたコードの上に、情緒だよりの歌を口ずさむ。
人はそれぞれに何を思っているのか、正確には計れない。それならば可能性を高めるために、「とにかく広げること、主張すること、エネルギーを出すこと」だ。確か、力強いスネアにそう学んだはずだ。
木を見て森を見ず・・彼は生み出していないことには気づかぬままであった。
出典 Flickr