日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

「人はなぜ青空の下で飯を食うのか」

 2019/10/04


ふとテレビを観ると、そんな文言が目に入ってきた。飯を食べるというクローズドな行為(米やトマトをあらゆる方向に投げるわけではない)をひらけた空間に持ち込むことにより、真っ白なキャンパスに対する黒い点、特別な領域を確保できるのだろうか。

 

 
全体主義からの一時的解放、それは自己を自己として再認識する精神的行為に繋がりえるのか。青さはどちらかというと、悲しみを想起させる色である。しかし、無限に広がる空を伴うと、爽快さが前面に押し出される。

 


空はなぜ、詩的であるのか。建築物とどう違うというのだろうか。天然に人工。人間の支配下に置けないものに美しさは付随しているのだろうか。

人は空の下でなぜ飯をくらうのか。命題。

理由の起点を人間と考えたが、その遥か先にあるのだろうか。

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藁火サイファーへ

2019/09/26

 

埼玉に身を潜めて数年が経つ。大宮、川口、その辺りは街が栄えている。川口の規模感は大阪で例えると天王寺である。都内で用事を済ませることも多く、なかなか、埼玉の各駅を降りることがない。昨日、初めて蕨に降りた。名前の由来にはいくつかの説があり、「藁火」が変化して蕨になったという説もあるそう。


藁に火。なんと品のある字面。火が持つ神秘性にそう思わされているのか。ああ、使役。そんな蕨駅サイファーが行われているとの情報を得た。単身、乗り込む。だだ広いクラブの個室でそれは行われていた。懸命に言葉を紡ぐその姿に献身的な対応、とても有難かった。


私もその円の一部となり、対話の質を変えてしまう素っ頓狂な言葉を羅列する。それは私の自然な在り方である。不自然に調子を合わせても、篝火が消えるように、精神の拠り所を失うだけである。違いがあることを前提としている相手に対して、失礼でもある。そのままに自然を保つ。その自然をより相手に伝えられるようにする、そのためのキャラクターを考える。


味を変えるのではなく、包装の仕方を。味を変えてしまっては表現する人として元も子もない。自身との対話を重ねている人のラップはとかく味わい深い、技術ではない部分。


キャラクタ性について、よく考える機会になった。自分の躍動を見つめる。

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吐瀉物の上で奥ゆかしく踊る。

2019/09/21

 

吐瀉物の上で奥ゆかしく踊る。

いくら垢にまみれても、それぞれの生を受け取っている。知覚させるための信号、そのエネルギーは例えば電気だとか。設計書や世界を巡る循環システム、成分の交換は動植物内で多種多様に行われている。目に見える身体までを自己と定義するのか、生きるためのエネルギーや愛しいものを含め自己とするのか。言葉を与えられ創られた概念を私はいくつ覚えたのだろうか。楽しくも遠い。
それらは知覚を敏感にさせ、次へと導いてくれる。

概念を脳内にコレクションし、「観察」を始める。

 
朝、目覚まし時計を止める

夕、空はオレンジ色に染まる

夜、忙しさの中で眠る

 
1日が過ぎるのが異様に早い。

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