回廊日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

東京のラッパーであり、Nitro Microphone Undergroundの一員、千葉県松戸市議会議員であるDELI氏提供の『チカチカ(マル秘)大作戦』を聴きながら。

2020/01/28

 

智慧の記」などとそれらしさのあるタイトルを平気でつけましたが、更新が滞っていました。智慧に向いていない、賽の目があらかじめ決まっているかのごとく、絶対的な存在に見向きもされていないのかもしれない。

 

まどろっこしく本題に入らないのは古来から伝わる常套手段であります。現代の肥溜め(?)ツールであるSNSでみかけた「例えが下手な人は頭が悪いか、性格が悪いか」という言葉が頭をよぎります。


頭も性格も(中途半端に)悪くはないので、本題。

マイルス・ディビスのライブ動画を見て、どうしようもなく喋りたくなった。ただそれだけです。

www.youtube.com


お互いがお互いを無視しているのに、異常なまでに空気の統一感があります。これを仮に"音楽的"と名付けます。最近、言語における表現活動、いわゆる詩の朗読、スポークン・ワードを鑑賞する機会が増えていますが、"音楽的"とは違うと感じてならないのです。多分、音と言葉が持つ性質の差を指摘しているだけです。詩を言語外の感覚を言語に落とし込むという、”それを使ってそれ以外をあらわすもの”と捉えているのですが、習慣的に意味を捉えてコミュニケーションをはかるためか、意味の外に出られない、言い換えると、詩には意味が常にまとわりついている気がしてならないのです。

 

音楽はその段階を無視して、便利な言葉として、より宇宙的です。
反復の中での遊び。その遊びは人生を抽出して比喩表現に落とし込んでいるような気がするのです。詩的、音楽的。言葉遊びの範疇を抜けることはありませんが、その差について誰かと話したい気分です。

 

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・東京のラッパーであり、Nitro Microphone Undergroundの一員、千葉県松戸市議会議員であるDELI氏提供の『チカチカ(マル秘)大作戦』を聴きながら。

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